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[11]第3章「端境期のセヴンティーン(3)」

リングの上の3つの人生――ファイティング原田、たこ八郎、青木勝利

菊地史彦

 相手を倒せば、自分が「本モノ」になる。このシンプルで容赦ない行動を、公認された暴力で実現する「場」がある。格闘技と呼ばれるスポーツだ。

 戦後日本の格闘技といえば、プロレスとボクシングである。

 プロレスを代表するのは力道山である。

 ボクシングでは、50年代ならまちがいなく白井義男である。

 すでにプロボクサーだった白井は、応召され、三沢航空基地で敗戦を迎えた。硫黄島へ向かうはずだった白井は、すんでのところでその運命を免れたのである。彼は復員してボクシングを再開した。しかしふるわず、引退を考えていたところを、GHQの将校、カーン博士(アルビン・ロバート・カーン)に見出された。彼の指導でめきめき強くなった白井は、フライ級とバンタム級の日本チャンピオンを破って2階級を制覇した。

 カーン博士は、さらに世界王座を狙った。白井は、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノとノンタイトル10回戦を戦い、1勝1敗とした後、3回目で世界タイトルマッチにたどり着いた。

 1952年5月19日、会場の後楽園球場には、4万人の観客が集まった。白井は、多くのラウンドでマリノを圧倒し、判定勝ちで勝利をおさめた。日本人初の世界チャンピオンは、その後4度の防衛に成功した。

 白井の後、日本人の世界チャンピオンはしばらく現われなかった。米倉健志、矢尾板貞雄、高山一夫、関光徳、野口恭が挑戦したものの、いずれも敗れた。

 この当時の世界チャンピオンは、フライ級からヘビー級までの8階級で各1人、つまり世界で8人しかいない。作家の百田尚樹によれば、1952年の世界チャンピオンは、現在のややインフレ気味の世界チャンピオン(4団体、17階級、約70人)とは、比べものにならないほどの重みと価値があったという。

 後にその世界の頂点を8年ぶりに戦い取った男は、山口二矢と同じ「1960年の17歳」である。16歳と10カ月でプロテストに合格した彼は、60年2月、デビュー戦で増井伊佐巳にTKOで勝ち、以後連戦連勝を重ねて、この年の東日本新人王決定戦で優勝した。

 決勝戦の相手は、3歳年上の海老原博幸。17歳の少年は、海老原から2度のダウンを奪った。海老原は、長身のサウスポーで、鋭い右ジャブとカミソリといわれた左ストレートが武器の天才肌のボクサーだった。生涯に6回の世界戦を含む72戦を戦ったが、KO負けは一度もない。ダウンしたのも、この少年から奪われた2つだけである。

 彼の名前は原田政彦。翌61年正月、ファイティング原田というリングネームをもらった。

 原田は世田谷の深沢町で育った。深沢中学では名門の野球部に入り、センターを守る一番打者だった。地元の駒沢球場は東映フライヤーズの本拠地だったから、人気のないカードでは、深沢中学の生徒が無料招待されることもあった。むろん、原田も観客席にいた。

 中学2年生の時、植木職人をやっていた父が木から落ち、ケガをして働けなくなった。原田は家計を助けるため、近所の精米店に働きにいった。高校進学はあきらめざるをえなくなった。おそらく同時に、野球に対する情熱も冷めたのだろう。

 鬱屈した思いにとらわれた原田は、翌年、近所にあった笹崎ボクシングジムに入門した。1000円の入会金は、自分の貯金をはたいた。日本に世界チャンピオンはいなかったが、若者たちの間ではボクシングがブームになっていたのである。また小柄な原田は、ボクシングの階級制は、自分の身体を生かしやすいスポーツだと考えていた。158センチ(公式には160センチ)という身長は、たしかに野球を含むその他のスポーツには不向きである。

 1959年春、中学校を卒業した原田は、大森の電気器具メーカーに就職した。5人兄弟の次男坊としての責任を果たすのは、当然のことだったからだ。野球部顧問の小谷野博によれば、当時の深沢中学では、卒業生の90パーセントが高校に進学した。中卒の「金の卵」は、東京都内ではもう少数派になっていたのである。

 しかし、大森の工場勤めは続かなかった。手先は器用だったが、工場の仕事にはさっぱり興味が持てなかったのである。

 半年後、深沢に戻った原田は精米店に住み込み、ジム通いを本格的に始める。小谷野は、同窓生と顔を合わせることの多い米屋奉公は辛かったはずだが、原田はみじんもそんな表情を見せなかったと語っている。彼は、ボクシングに打ち込む自分が「本モノ」であり、ベルトコンベアの前で部品を組み立てる自分は「偽モノ」だと確信したのである。

笹崎ジム経営(東京・目黒) 笹崎たけし氏(たけしは人偏に黄) =1963年4月、東京都目黒区.拡大笹崎ジムの笹崎会長(左)=1963年4月、東京都目黒区.
 200人の練習生に混じって、縄飛び、シャドー・ボクシング、サンドバッグ打ちを繰り返す日々が続く。そんなある日、基本練習に飽き足らない原田が、スパーリングをやらせてくれと懇願したことがあったらしい。生意気な小僧を懲らしめてやれとばかりに、プロの4回戦ボーイをあてたところ、逆に15歳の原田にいいように打ち負かされてしまった――。

 いささか伝説めいたエピソードだが、ジムの会長・笹崎○(=にんべんに黄、たけし)が、少年の才能を認め、合宿生としたのは事実である。原田は精米店を辞め、すべての時間をボクシングにささげた。笹崎ジムの猛練習は、この世界では鳴り響いていた。現役時代は、強烈な右のストレートで「槍の笹崎」といわれた会長は、ジムを運営するようになってからは、「鬼の笹崎」になった。

 しかし、原田は音を上げなかった。迷うことなく、原田は誰よりも多くの時間を練習に費やした。

勝った男、転じた男、負けた男

 笹崎ジムに、原田より少し遅れて入門した斎藤清作は、映画のフィルム運びをやっていた。自転車にフィルムを山積みして、中目黒銀映、大森金星、祐天寺名画座などを走り回っていた。59年の晩秋、木枯らしに吹かれながら自転車を押して帰る途中、笹崎ジムの看板に目を止めて中を覗きこむと、数十人の若者たちが練習に精を出していた。パンチをくりだす息づかい、パンチングボールの震動音、揺れるサンドバッグ……。

 斎藤はその場に立ちすくんだ。高校時代、モスキート級(最軽量の44キロクラス)で宮城県高校チャンピオンの座を2度勝ち取った斎藤の胸に、ボクシングへの熱が蘇った。

 翌日、彼は入門の手続きをした。

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。