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[12]第3章「端境期のセヴンティーン(4)」

加賀まりこのスタイル

菊地史彦

 1960年4月10日、麻布飯倉片町8番地(現在は麻布台3丁目)にイタリアンレストラン、キャンティが開店した。六本木の交差点から飯倉方面に歩いていくと、その2年前にできた東京タワーが、ずいぶん間近に大きく見えたはずである。店のオーナーは、川添浩史と妻・梶子。地下だけの20坪ほどの小さな店だった。この夜、最初にやってきた客は、歌手のジェリー伊藤と、彼が連れてきたペギー葉山だった。

 ジェリーの父、ダンサーで振付師の伊藤道郎、叔父の千田是也(演出家)は川添と仕事をした仲だし、ジェリーの妻・花柳若菜は、川添といっしょに「アヅマカブキ」で欧米を巡った出演者の一人だった。梶子も「アヅマカブキ」のナレーターをやっていたから、花柳とは周知の間柄だった。そもそも、麻布の川添家によく招かれていたジェリーにしてみれば、キャンティはその延長のようなものだった。

 たしかに、川添夫婦もそんなつもりで開いた店だった。自分たちが設えたダイニングに、友人や知人たちがやってきて、いっしょに食事をしながらおしゃべりを楽しめればいい。店で儲けようという気持はほとんどなかった。

 ところが、そこに足繁く通ってきた彼らの客人は、作家の三島由紀夫、音楽家の黛敏郎、画家の今井俊満、フジテレビの鹿内信隆、読売新聞の海藤日出男、ヴァンジャケットの石津謙介、映画監督の勅使河原宏など、戦後の文化を背負って立つ人々だった。キャンティはたちまち知る人ぞ知る店になった。

 すると、この働き盛りの40代の人々に惹かれるように、もっと若い世代もやってきた。歌手のミッキー・カーチス、後にザ・スパイダースを結成するかまやつひろしや田辺昭知、モデルの松田和子、俳優の岡田真澄や伊丹十三……。

 そしてそこには、まだ何者でもない「1960年のセヴンティーン」も混じっていた。

 大映のプロデューサー加賀四郎の娘、雅子は、川添の二人の息子、象郎(しょうろう)や光郎(みつろう)と遊び友だちだったから、この店にもやってきた。川添兄弟は、慶應幼稚舎から中等部へ進み、高等部の途中から鹿児島ラ・サールへ転校し、父と実母(ピアニスト・原智恵子)の離婚を機に東京へ戻ってきたところだった。光郎と慶應中等部で同級だった福沢幸雄(後のレーシングドライバー)も同じ17歳だった。

 加賀雅子は、15歳の頃、青山のボウリング場で象郎・光郎と出会って親しくなり、川添家に出入りするようになった。彼女によれば、川添兄弟が鹿児島へ行かされたのは素行不良によるものだったという。

 寄宿舎にいた兄弟は、新聞で母親の離婚を知った。象郎が先に東京へ帰ると、麻布笄(こうがい)町の実家には梶子という見知らぬ女性がいた。彼女は、義理の息子に新しいボタンダウンのシャツを渡してこう言った。

 「お母さんと呼ぶことないのよ。私、あなたのお母さんじゃないから。そうね、何と呼んでもらえばいいかしら、そう、じゃあ、タンタンと呼んで」。

 「タンタン」とはイタリア語で“おばさん”という意味の言葉だ。

 10代の加賀は、この“おばさん”がすっかり好きになった。彼女が後に「キャンティ」に連れて行った安井かずみ(作詞家)は、梶子の熱烈な信奉者になった。

 明星学園高等学校へ通う17歳の加賀雅子は、自宅近くの神楽坂で、二人の男に呼び止められた。二人は、映画の脚本を書いている寺山修司と、その映画の監督を務める篠田正浩と名乗り、「あのですね、今度僕らが撮る映画にあなたに出てほしいんです」と言った。

 寺山と篠田は、神楽坂の旅館「和可奈」に籠って脚本を仕上げていたときに、登下校する加賀を見つけた。この娘ならイケると、どちらかが言ったのだろう。

 だとしても……と、彼女は尋ねた。なんで私みたいなド素人を使おうと思ったんですか?

 たしかに、それは訳ありのスカウトだった。

 彼らがつくろうとしていた映画の主役は、歌手の藤木孝だった。藤木は渡辺プロダクションのタレントで、「24000のキッス」のヒットで一躍人気者になったものの、金銭面の待遇に不満を持って引退した。

 ところが、すぐに若槻繁が主宰する「にんじんくらぶ」へ移籍して芸能界に舞い戻ったために、藤木を育てた渡辺美佐が猛烈に怒った。美佐は、テレビ局と映画会社に藤木締め出しの回状を回した。これが篠田たちの映画にも波及して、藤木の相手役の出演交渉がことごとく潰されてしまったのである。その結果、困り果てた篠田と寺山は、新人起用しかないと心を決め、神楽坂の美少女に声をかけたのだ。

 加賀に言わせれば、“義を見てせざるは勇なきなり”と江戸っ子の血が騒いだらしい。彼女は、「彼らが抱える悔しさと“屈しないぞ!”という熱情に共振し、少女なりにも意気に感じて、『そんなに困ってるんなら、私、やってみます』」と言った(『とんがって本気』、2004)。

 1962年に公開されたその作品は、『涙を、獅子のたて髪に』である。篠田にとっては6作目、寺山との共同作業は4回目だった。

加賀まりこ拡大加賀まりこ=1965年
 加賀は、雅子に代えて「まりこ」を芸名とし、横浜山下公園近くのレストラン「THE HOFBRAU」で働くユキを演じた。ユキは、犬にじゃれつかれて困っているところを、藤木が演じるサブに助けてもらったことから、彼とつきあうようになる。戦災孤児のサブは、松平海運の支配人、木谷(南原宏治)の手先になって、日雇い港湾労働者のピンはねをやっている。

 その頃、港湾労働者が組合をつくろうとする動きを見せ、察知した木谷はサブに対し、リーダー格の中島に「ヤキを入れろ」と指示を出す。ところが、暴行が行き過ぎて相手を殺害してしまう。その葬儀に出たサブは、中島がユキの父親であると知る。

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。