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[8]ソ連版『雪の女王』と宮崎駿をめぐる因縁

叶精二 映像研究家、亜細亜大学・大正大学・女子美術大学・東京造形大学・東京工学院講師

 日本興行16週目に突入した『アナと雪の女王』。未だトップを独走しており、累計動員1869万人、興行収入は237億円に達した(6月23日付『CINEMAランキング通信』)。

 向かうところ敵なしだが、7月以降は夏の大作公開が相次ぐ。その中でどれだけ健闘できるかが今後の鍵であろう。

北米でも公開されたソ連版『雪の女王』

 映画『アナと雪の女王』の宣伝素材によれば、ウォルト・ディズニーは生前『雪の女王』の映画化を熱望していたという。しかし、実現には至らなかった。

 推測だが、その理由の一つは先行するアニメーション映画が存在していたからではないか。ソユウズ(サユース)ムリトフィルム(ソ連邦動画スタジオ)制作、レフ・アタマーノフ監督の長編アニメーション『雪の女王/СНЕЖНАЯ КОРОЛЕВА』(1957年)である。

 この作品は、冒頭部の「悪魔の鏡の破片が世界に飛び散った」くだりを雪の女王の氷の破片とするなど一部の改変はあるものの、ほぼ原作を忠実に再現した上、余分な枝葉(魔法使いの庭の花々の長い自分語りなど)を取り払って見事にまとめている。進行役にアンデルセンの別の童話『眠りの精のオーレ・ルゴイエ』の主人公を登場させたことも奏功している。

 ディズニー長編とは異なり、ミュージカルシーンはない。お伽噺にありがちな大人しく美しいだけで主体的意志を持たないヒロイン像とは異なり、自らの意志で運命に抗う少女ゲルダが主人公である。過酷な試練を乗り越えながら少女が旅を続けるロードムービーであり、勧善懲悪を避けて登場人物たちが改心し交流する心理的変化が丁寧に描かれるなど、当時としては何もかもが画期的な長編アニメーションであった。

 1959年にこの作品の英語吹替版が制作され、翌60年に『THE SNOW QUEEN』として北米公開を果たしている。

英語版『雪の女王』を手がけたデイブ・フライシャー(1960年)釘宮陽一郎氏提供英語版『雪の女王』を手がけたデイブ・フライシャー(1960年)=釘宮陽一郎氏提供
 その際、初期ディズニーの最大のライバルであったフライシャー兄弟の弟、デイブ・フライシャー監督が英語版の制作と宣伝に協力していた。兄マックスと弟デイブのフライシャー兄弟は、ディズニーに先んじてロトスコープ(実写の演技を動画に引き写す技術)など様々な技術を開発、『ベティ・ブープ』『ポパイ』などの人気シリーズを生み出したトップ・アスリートであった。

 しかし、デイブは傑作長編『バッタ君町に行く』(1941年)を最後にスタジオを去った。作品は12月に公開されたものの観客の支持を得られず、公開直後に日本軍の真珠湾攻撃によって戦時体制となり、興行的に失敗。フライシャー・スタジオは破産した。

 マックスはジャム・ハンディ・スタジオを経て、晩年はフェイマスプロの代表に就任。アニメーション制作に関わり続けた。しかし、デイブのその後の消息は資料が数少ない。18年ぶりに長編アニメーションに関わった心中は、いかばかりであったろうか。

 40年代からのフライシャーの衰退とは逆に隆盛を極めたのがディズニーである。この作品を当時『眠れる森の美女』(1959年)公開直後だったウォルトとディズニーのスタッフが鑑賞していた可能性は高い。それゆえ、ディズニーは当然アタマーノフ/フライシャー版とは異なる方向で映画化を目指した筈である。

英語版『雪の女王』ポスター、釘宮陽一郎氏提供英語版『雪の女王』のポスター=釘宮陽一郎氏提供
 以来50年を経てその遺志を継いだ『アナと雪の女王』が、アンデルセンの原作とかけ離れた設定からスタートせざるを得なかったのは、ある意味当然であったのかも知れない。

 『雪の女王』が日本に輸入されたのは1960年、ソ連映画の配給会社・日本海映画によって英語版を下敷きにした日本語吹替版が制作され、1月にNHKでテレビ放映された後、フィルムでも上映された。1997〜98年にはビデオ・DVDも発売されたが、ほとんど吹替版(LDのみロシア語版あり)であった。

宮崎駿の表現と演出の源泉

 若き日の宮崎駿が、映画『雪の女王』に計り知れない影響を受けたことはよく知られている。

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