2014年06月25日
本稿(1)で論じた傑作『妻は告白する』は、増村の作品歴において大きな分岐点であった。
すなわち『妻~』以前にも、『暖流』(1957、必見、後述)、『氷壁』(1958、これまた必見の山岳犯罪もの)、『巨人と玩具』(1958、必見、後述)、『氾濫』(1959、必見)、『偽大学生』(1960、必見)などで主題化されていた、人間(とりわけ女性)の不可解なまでに強烈な情念・エロスや、<悪>をめぐる屈折した心性、あるいは社会批判的モチーフを、増村は本作以後、よりじっくりと凝視するように描くことが多くなる。
そして、そうした路線を突きつめた究極の怪作こそ、盲目の彫刻家とファッション・モデルが互いの肉体を傷つけ合うにいたる、性と死をめぐる仰天すべき倒錯的フィルム、『盲獣』<1969、必見>と、女占い師をめぐる連続殺人事件を血みどろに描くミステリー・ホラー、『この子の七つのお祝いに』<1982、遺作、必見>だ)。
こうした、『妻~』以前から以後への増村の変容は、私見によれば、成熟などではなく、あくまで作風の変化である。なぜなら、『妻は~』以前においても、それ以後とは異なる作風の、いわば“増村完成形”とさえ呼べる映画が存在するからだ。
たとえば初期の最高傑作、前記『暖流』の素晴らしさはどうだろう。1939年に吉村公三郎監督によって映画化された名作(岸田国士・原作)を、増村・白坂コンビが斬新かつ破天荒にリメイクした作品で、破産寸前の志摩病院の立て直しに奔走する日疋(ひびき:根上淳)、日疋の恩人の娘、志摩啓子(野添ひとみ)、看護婦・石綿ぎん(左幸子)をめぐる恋のさや当てを、病院に渦巻く陰謀にからめてアップテンポで描いた映画だ。
ともかくこの作品では、登場人物ら――とりわけ事実上の主人公・石綿ぎん/左幸子――が、まるで機関銃のように早口で喋りまくるが、彼、彼女らは喋りつつ考える、あるいは考える前に喋る、もしくは何も考えずに喋る、といったぐあいで、その様はさながらハワード・ホークスやプレストン・スタージェスの撮った<スクリューボール(変人)・コメディ>をほうふつとさせる(スタージェスのスクリューボール・コメディについては、「スクリューボール・コメディの大傑作『パームビーチ・ストーリー』がやってくる!(上)(下)」2013/07/15、同07/16付の本欄参照)。
そして石綿/左幸子はしばしば、早口でまくしたてながら走ったり、体を折り曲げたり捩(ねじ)ったりするが、そうした身体的動作や抑揚をつけずにセリフを声高に棒読みするパフォーマンスは、のちに相米慎二が『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子や、『東京上空いらっしゃいませ』の牧瀬里穂に演(や)らせた演技に、その明らかな影響が見てとれる。
志摩啓子に扮するユニークな美女、野添ひとみも最高で、高飛車で高慢ちきではあるが、あっけらかんとした様子でマシンガントークや画面奥への全力疾走を披露し、心理的な演技は一切しない(また作中、若き日の丸山(現・美輪)明宏がシャンソンを美声で歌うシーンも見どころ)。
『暖流』でも、前述の“直角構図”は頻出し、ローアングル/仰角、ハイアングル/俯瞰と、カメラ位置もかなりの頻度で切り替わる。その点では『妻は告白する』と変わらないが、しばしばクレーン移動でカメラが大きく動き、ドラマ展開の高速度に見合ってカット割りがリズミカルである点が異なる。
したがって『妻は告白する』以後、増村映画は『暖流』――そして『くちづけ』、『巨人と玩具』、『青空娘』(1957、必見)、『最高殊勲夫人』(1959、必見)――に顕著だった、スクリューボール・コメディ風のスピード感、躍動感はみられなくなる。
もっとも「女性映画」の系列ではない、“サラリーマン・スリラー”「黒シリーズ」、とりわけ『黒の報告書』(1963、必見)では、歯切れのいい展開がスリリングだ。
なおこの映画では、『妻~』同様、裁判シーンも出色だが、東大法学部出身の増村は、法廷の場面をどう演出するかに、並々ならぬこだわりを見せたという(『映画監督 増村保造の世界』<増村保造・著、藤井浩明・監修、ワイズ出版、1999。なおフィルムセンターにおいて『清作の妻』上映後、若尾文子氏も登壇する7月5日、本書の文庫版の(上)が同社より発刊される(必読!)。本書の中で増村は、『妻~』のヒロインに関して、「男と女を比べて、どっちが魅力のある存在かと言えば、それは文句なく女[だ]。カマキリのオスとメスのようなもので、オスはセッセと努力した果てにメスに食い殺され
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