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[13]第3章「端境期のセヴンティーン(5)」

干刈あがたと安保闘争

菊地史彦

6月の記憶――戦後最大の国民運動

 安保闘争は「強行採決」によって新しい局面を迎えた。

 5月19日、政府・自民党と清瀬一郎衆院議長は、警官隊500人を衆院に入れ、社会党議員らを排除して、50日間の会期延長を議決した。また批准承認についても、安保特別委の審議打ち切り、採決、さらに本会議での採決を20日未明までに強行し、すべて可決した。

 翌20日の10万人デモを皮切りに、デモの波が国会や首相官邸を取り囲んだ。マスコミの論調も含めて「岸退陣」に運動の矛先が向けられた。学生・労働者に加え、市民がさまざまなかたちで参加した。戦後最大の国民運動は、異様な熱気をはらんで加速していった。

 6月4日には、全国で560万人が参加して「ゼネスト」が打ち抜かれた。

 10日には、アイゼンハワー米大統領訪日の打ち合わせに来日したハガチー秘書が、羽田で、全学連反主流派(日共系)のデモ隊に取り囲まれた。

 安保闘争には、セヴンティーンも多数参加した。

 各高校の学校新聞を見ると、横断幕やプラカードを掲げてクラス討論をした大阪・高津高校、新聞局内に「安保問題研究会」を設置し、安保問題の小冊子を出した京都・洛北高校、4月26日の統一行動に100人近くが参加した東京・新宿高校などの記事が載っている。

 5月19日以後は、国会デモの隊列にも高校生の姿が目立つようになる。5月26日の東京の統一行動では、数百人の高校生が校旗をなびかせて登場したという。

 またこの頃、全学連主流派系の高校生組織、「安保改定阻止高校生会議」も結成されている。初代議長は私立城北高校の鈴木迪夫である。東京都立青山高校、同駒場高校、私立の早稲田学院などが拠点校だったという。

 都立富士高校2年生の柳和枝は、自分の所属する新聞部や社研の仲間と連れ立ってデモに出かけ、高校新聞連盟の隊列に加わった。その時のようすを、彼女は20年後、こんなふうに書いている。彼女の分身のような主人公が語りかけている相手は、新宿で知り合った20歳の予備校生である。

 一九六〇年、あなたが生まれた年。私は十七歳の高校生だった。六〇年安保闘争というのがあって、私は都立高校新聞部連盟、略称コーシンレンの人達と、六月に入ってからデモに参加するようになったの。
 初めての日は四谷駅の一時預けに学生鞄を預けて、清水谷公園に集合して、日比谷、銀座へとデモ行進した。その日は霧雨が降っていて、都道府県会館あたりのイチョウ並木の道を行進する間に、若葉の匂いを含んだ雨がセーラー服の肩にしみた。それが体温でむれて、体の匂いと一緒に立ち昇るの。私はその時はじめて男の子と腕を組んだから、自分の匂いが気になって仕方なかった。銀座のネオンを見たのもその時がはじめてだった。スクラム組んだ日比谷高校の男の子が、シュプレヒコールの合い間に、〈あれが日劇です〉とか〈右側が資生堂です〉とか教えてくれたの。あんな美しい夜景をあれ以来見たことがない。……(干刈あがた「樹下の家族」1983)

干刈あがた=1985年拡大干刈あがた=1985年
 高校を出て、1年の浪人の後に早稲田大学第一政経学部新聞学科へ進んだ彼女は、しかし経済的な困難ゆえに翌年中退する。雑誌のライターなどの仕事をしながら、結婚し、2児を出産。作家・島尾敏雄の導きもあって、奄美・沖永良部の島唄を採集し始めた。

 1982年、「樹下の家族」で第1回「海燕」新人文学賞を受賞。この作品から、干刈あがたのペンネームを使うようになった。

 小説の中で、彼女の追想は続く。

 高校生のデモも、学生と同じように直接、国会に集合するようになっていった。主人公は、林立する赤旗の中で東大のスクールカラーの青旗(ブルーフラッグ)に目をとめる。

 6月半ば、デモの中に右翼が突っ込んできた。怒号や悲鳴の中、彼女は「高校生はさがれーっ、高校生を守れーっ」と誰かが叫んでいるのを聞く。

 翌日は雨だった。コーシンレンの幹事校から、もう危険だからデモ参加はとりやめるという連絡が入った。テレビでは、国会議事堂の門を突破しようとするデモ隊と機動隊が激しくもみ合っている映像が何度も放送された。

 ……夜に入ってから、死者が出たらしいというニュースが流れた。それが東大の樺美智子さんという女子学生だったの。
 窓の外には激しい雨が降りつづいていた。私はね、自分が生理的な感覚だけで、おまつり気分のように参加していたデモで、一人の女子学生が死んだことにショックを受けていた。それとね、私の父は警察官だったの。(前掲書)

「時の中の時」、1960年6月15日

 樺の死は大きな衝撃を与えた。

樺美智子さんの死に抗議し、学内合同慰霊祭の終了後、警視庁前でデモを行う東大生たち=1960年6月18日拡大樺美智子さんの死に抗議し、学内合同慰霊祭の終了後、警視庁前でデモを行う東大生たち=1960年6月18日
 16日、政府はアイゼンハワー大統領の訪日延期を発表した。東大の茅誠司総長は、政府に民主主義の回復を求める声明を発表した。在京7新聞は、「暴力を排し民主主義を守れ」という共同声明を出した。

 19日零時の自然承認に向けて、決死の覚悟の学生が全国から東京へ駆けつけ、騒然とした雰囲気は続いていた。高校生の動きもさらに活発になった。諏訪清陵高校、松本深志高校、京都の鴨沂(おうき)高校、洛北高校などの生徒は街頭デモへ出た。

 私にはなじみ深い奥浩平(『「幸せ」の戦後史』終章参照)も、青山高校の仲間たちと国会へ向かった17歳のひとりだった。 ・・・ログインして読む
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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。