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スイスの異能、ダニエル・シュミット監督特集が東京・渋谷で開催!(3)――“ファム・ファタール映画”の傑作、『ヘカテ』の魔力

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 ダニエル・シュミットの『ヘカテ』(1982、カラー)は、“ファム・ファタール(宿命の女)映画”の傑作だ。マイナーな映画作家とみなされている彼の作品中、最も娯楽色の強くファッショナブルな、それゆえ最もヒットした映画でもある。

 なにしろ、ヒロインに扮するのは、「ヴォーグ」誌の専属モデルだったスレンダーなアメリカの女優、ローレン・ハットン。しかも、クリスチャン・ディオールの服をややルーズに着こなして登場する彼女が、その妖艶な魅力でハンサムな外交官の心を奪い、骨抜きにしていく……という物語が、異国情緒あふれる北アフリカの“地の果て”を舞台に、ミステリアスに展開されるのだ――。

 にもかかわらず、『ヘカテ』は、「語られる内容よりも、語り方[描き方]のほうが重要だ」、と断言するシュミットならではの、一筋縄ではいかない作品である。

 いっとき消費されて泡沫(バブル)のように消えてゆく、時流に乗っただけの「おしゃれな」映画とは訳がちがう。なるほど『ヘカテ』では、前回論じた『ラ・パロマ』ほどには、偏愛する古典映画をキッチュに奇形化する、ある種アブノーマルなシュミットの作家性は顕著ではない。ドラマ展開は、とりあえず「普通/ノーマル」だ(と言っておこう)。

 そして『ラ・パロマ』の、どんよりとした目つきの、お世辞にもハンサムとはいえぬ幼児的肥満体のペーター・カーンにかわって、『ヘカテ』でローレン・ハットンの相手役をつとめるのは、やはりディオールの少し肩の張った白い麻のジャケットをシックに着こなす美男俳優、ベルナール・ジロドー(仏)である。つまり『ヘカテ』は、キャストの点でも、ひとまずノーマルな恋愛メロドラマの体裁を保っている。

 しかしながら、物語の<描き方>の点で、『ヘカテ』はとりもなおさず、シュミット流に――前述のごとく『ラ・パロマ』よりは目立たぬかたちで――異形化された古典的メロドラマなのである。順を追って述べよう。

――映画は、第二次世界大戦中(1942)のスイスのベルンにおける、フランス大使館主催のパーティ・シーンで始まる。まもなく晩餐会のテーブルで、伊達男のジュリアン(ベルナール・ジロドー)が追憶に耽る、というかたちで、場面は過去へとさかのぼる(泡立つシャンパンから、波立つ海面へのオーバーラップ!)。……およそ10年ほど前、北アフリカのフランス植民地の某所に、外交官として勤務していたジュリアンは、何もすることのない退屈な日々に倦(う)んでいたが、ある日、宵のパーティでテラスに立って風に吹かれている一人の女と出会う。シルクのドレスを身にまとった彼女こそ、“謎の女”クロチルド(ローレン・ハットン)だった(彼女の夫は、シベリアに派遣されているフランス人将校)。

 それにしても、“絵に描いたような”偶然の――しかも美男美女の――出会いである。古典的メロドラマでは、目立たぬよう「本当らしく」設定された偶然を、シュミットは嘘っぽさすれすれに、あっけらかんとやってしまうのだ。

 むろん、こうした潔いご都合主義は、やはり「古典」のパロディとは似て非なるものである。それはやはり、「古典」への偏愛と、しかし自分は「古典」の時代に遅れてやってきた者だという、「古典」へのシュミットの距離感が――つまり相反感情が――生んだものだろう(そこでの古典的な視線演出については後述)。

 さて以後の物語は、

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