2014年07月30日
かつてスタジオジブリの名作群を支えたア二メーター、近藤喜文の業績を網羅した「新潟が生んだジブリの動画家 近藤喜文展」が8月31日まで新潟県万代島美術館で開催されている。
近藤喜文は1998年1月21日にこの世を去った。享年47歳。その早過ぎた死は、16年を経ても未だ悼み足りない。日本のアニメーションが失ったものは余りに大きかったと言わざるを得ない。
告別式の席上、高畑勲監督と宮崎駿監督が読み上げた弔辞が今も筆者の耳に残っている。
「感じの出る絵、感じを出す動き、それを描き出せる人、それがぼくにとっての近ちゃんでした」(高畑監督)
「僕が出会った何百人ものアニメーターの中でも、屈指といっていい感じのいい仕事をする、腕の良いアニメーターでした。(中略)晴れ上がった空のようなつきぬけた解放感が、彼の仕事にはありました」(宮崎監督)
こんな挿話がある。1982年9月、東京ムービー新社(現トムス・エンタテインメント)による日米合作の巨大プロジェクト『リトル・ニモ』制作準備のため、日本の優秀なアニメーター10名(ほか3名、計13名)がディズニーの伝説的古参アニメーター、フランク・トーマスとオリー・ジョンストンの作画レクチャーを受講した。
日本のアニメーションの礎を築いた大塚康生と宮崎駿をはじめとする錚々たるメンバーが参加した。与えられた課題の採点で、「ディズニーでもすぐに通用する」とフランクとオリーから一番褒められたのは近藤喜文であったという(大塚康生の談話)。
アメリカのアニメーションは、人物の仕草や演技を誇張・強調して描き分ける「キャラクター・アニメーション」が主流だ。近藤は日本では自然な演技で名を馳せていたが、米式の誇張された演技も描き分ける技量を備え持っていた。要するに、洋の東西を問わずキャラクター・アニメーションの名手として認められていた。
もう一つの例を挙げたい。近藤の唯一の長編監督作品『耳をすませば』(1995年)にこんなシーンがある。主人公・月島雫はボーイフレンドの天沢聖司から校舎の屋上で告白を受ける。宮崎駿による絵コンテでは「声が出ないしずく うなずき SE(効果音)で心臓の音を… 涙があふれて来てうつむく」と箱書きがあり、嬉しさと恥ずかしさが混じった雫の表情が描かれている。
しかし、近藤演出による完成形では、うつむく前に一瞬だが目線を下に逸らした「戸惑い」の表情が挟まれており、SEはない。喜怒哀楽を瞬時に切り替える宮崎演出とは異なり、一歩気後れして立ち止まる普通の少女の幼さが表現されている。宮崎は雫の表情や演技について、様々なシーンで「こんな子じゃない」と怒っていたと聞く。
その作品は未だに進路に悩む中高生を鼓舞し、就職活動に勤しむ大学生からも絶大な支持を集め続けている。近藤が追求した等身大の演技は、世代を超えて今も若者への応援歌として機能している。
なお、宮崎駿が絵コンテを他人に委ねたのはこの作品だけである。『借りぐらしのアリエッティ』(2010年)『コクリコ坂から』(2011年)は「脚本/宮崎駿」と表記されているが、キーヴィジュアルとなる設定画と文字稿や口述によるシナリオ提供が仕事の内容であって、絵コンテは1枚も描いていない。それほど、近藤喜文の存在は大きかった。
近藤が描くキャラクターは、生き生きとした存在感と説得力に満ちていた。
宮崎駿に限らず、日本の商業アニメーションを華やかに飾る少女のキャラクターたちは、描き手の理想を反映して10歳でも20歳でも年齢不詳の美しさや強さやエロスの誇張をまとう。しかし、近藤の描く少女は、
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