2014年08月15日
『薄桜記』における森一生監督の超絶演出について書く前に、この<職人>にして<作家>であった名匠の略歴を記しておこう。
森一生(もり・かずお、通称:もり・いっせい、1911-89)は、京都大学文学部美学科卒業後、1933年に日活太秦(うずまさ)撮影所に入社、助監督として師事した伊藤大輔――前記のごとく『薄桜記』の脚本担当――とともに新興キネマへ移籍、時代劇コメディ『仇討膝栗毛』(1936)で監督デビュー。
ほぼ同世代の黒澤明とは戦前から親交を結び、復員後、黒澤が脚本を書いた『決闘鍵屋の辻』(1952)のメガフォンを取り、注目される(映画の才能という点では、森一生よりやや劣る黒澤明が「巨匠」としての名声を得たのに対し、森の名と作品が――とくに若い映画ファンの間では――あまり知られていないのは残念だ)。
戦後、森一生は大映で『山猫令嬢』(1948)、前記『決闘鍵屋の辻』、『花の講道館』(1953)、『薄桜記』、『不知火検校(しらぬいけんぎょう)』(1960)など、やはりさまざまなジャンルの傑作、秀作を撮り、さらに「悪名(あくみょう:61-69)、「座頭市」(62-73)、「ある殺し屋」(67、近々本欄で取り上げる予定)、「忍びの者」(62-66)といった「シリーズもの=プログラム・ピクチャー」に、その力量をいかんなく発揮する。
つまり森一生は、戦前戦後の邦画全盛期(30年代・50年代)から衰退期(70年代)まで、コンスタントに「娯楽作品」を撮り続けた、ほとんど唯一の監督だといえる(なお大映倒産は、市川雷蔵が他界した2年後の1971年)。
いいかえれば森は、日本映画の第1期黄金時代(1930年代)から、第2期黄金時代(1950年代)をへて、日本映画の衰退期=撮影所システム崩壊期(1970年代)に至るまで、一貫して「娯楽映画」、およびテレビドラマを撮り続けた稀有な監督なのだ(生涯で撮った映画は129本!)。なお、大映の看板スターだった市川雷蔵の作品をいちばん多く撮ったのも森一生(30本)。
さて嬉しいことに、“森一生百科”ともいうべき必読書が存在する。『森一生 映画旅』(森一生/山田宏一、山根貞男、草思社、1989)である。
表記のとおり、山田宏一、山根貞男という筋金入りの映画批評家二人が、森一生監督に十数回、計20時間にわたって行なったインタビューをまとめた、すこぶる貴重な1冊だ(しかも巻末には山田・山根両氏の興味深い対談が載っている)。
以下、『薄桜記』における森演出のポイントを、私見をまじえながら、同書に即してピックアップしてみたい。
『薄桜記』で印象深い舞台空間のひとつは、<橋>である。成瀬巳喜男の『噂の娘』、『乱れる』など、<橋>を舞台にした名場面が光る傑作は少なくないが、本作でも<橋>という空間はみごとに活用されている。
たとえば安兵衛/勝新太郎が、想いを寄せている千春/真城千都世が丹下典膳/市川雷蔵のもとに嫁ぐと知り、雨の降る橋の上で男泣きしていると、堀部弥兵衛が傘をさしかける場面(276頁)。
森はそのシーンで、けっして安兵衛/勝にカメラを接近させて彼の顔のアップを撮ったりしない。
カメラは終始、安兵衛と弥兵衛と背景が同時に収まる距離を保つので、場面は感傷に堕すことがない(流れるような簡潔さ、<瞬間>をとらえる“映画勘”の良さ、端麗な清々(すがすが)しさ、センチメンタルではない「きびしさを秘めた抒情性」(山根、414頁)も、すぐれて森一生的なものだ)。
また、典膳が自分の妻を凌辱することになる知新流の5人を斬るシーンも、まさしく<橋>が舞台だが、赤い夕焼けのなか、人物たちがシルエット気味になる映像が目を奪う。
そのシーンについて、森一生はこう言う
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