メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

[14]第4章「舞い降りたバリケード(1)」 

次はウチだ!――高校闘争1969

菊地史彦

 1969年11月4日、私たち都立井草高校の2年生は早朝、東京駅に集合し、南紀班と瀬戸内班に分かれて、修学旅行に出発した。

 南紀班と瀬戸内班というのは、クラスごとの希望で旅先を選び、全行程3泊4日のうち、前2泊を2コースに分かれて巡った後、京都で合流するというプランである。

 私のクラスは南紀班で、鬼ヶ城や瀞峡(どろきょう)といった観光名所で撮影した記念写真には、学生服で短髪の私が写っている。まだ中学生のような表情だ。自分の身の置き所が定まらないまま、17歳になったばかりの、1969年のセヴンティーン。

 この前半の旅行中に何があったのか、さっぱり覚えていない。強い印象が残っているのは、3泊目の京都の宿でのことだ。たしか、四条烏丸角の京都旅行会館という大きな洋式旅館だったはずだ。夕食の後、部屋に戻り、級友たちと雑談していたときに、Tという大柄の男子生徒がこんなふうに言った。

 「おい、菊地、あれがもうすぐ来るぞ」

 Tの仄めかすような言葉がなにを指しているのか、私には見当がついた。それは、世間で「高校紛争」と呼ばれていたものである。でも、にわかには信じられなかった。69年後半、都内の多くの高校で「紛争」は勃発していたものの、私の通う大根畑の中の高校にそうした事態が出現するとは、とうてい思えなかったからだ。

 Tは、格別政治的な男ではなかったが、クラスの「一般生徒」とは少し別のアンテナを張っているようなところがあったから、私は彼の言葉を胸に刻みつけた。

 「そうか。いよいよ、来るのか」

 本章では、69年の春から翌年の春まで各地で起こった高校の闘争について述べる。私もわずかに、この出来事にかかわった当事者である。自分の生き方は、この中で大きく変わったし、社会や他者に対する「視点」のようなものを初めて持った。

 大学の全共闘運動(及び世界の反体制運動)のピークが1968年だったことは、ほぼ定説になっている。高校闘争はそれからちょうど1年遅れて起こった。

 小林哲夫の労作『高校紛争 1969-1970』(2012)によれば、バリケード封鎖、校内集会やデモ、座り込み、教師と生徒の衝突、ストライキやハンスト、授業や試験のボイコット、卒業式・始業式の妨害などの「事件」は、全国で208件にのぼった。学校数では、35都道府県と琉球政府で176校である。

 特に都内では、69年の9月以後は、毎週のように封鎖や衝突が起きた。その兆しのある高校では、生徒も教師も、“次はウチか?”と固唾を飲んで情勢を見つめていたのである。

大阪府立茨木高校の反戦会議メンバーの生徒が卒業式会場の体育館を占拠、封鎖した=1969年2月25日大阪府立茨木高校の反戦会議メンバーの生徒が卒業式会場の体育館を占拠、封鎖した=1969年2月25日
 この年、春の嵐は西から始まっていた。

 2月25日には、大阪府立茨木高校の体育館を同校の「反戦会議」などが封鎖し、籠城した。当日の卒業式を「粉砕」するためだった。

 また、同日、阪南高校でも生徒らが校舎を封鎖し、校長室や事務室を占拠した。

 関西では、前年9月に府立市岡高校で、赤いヘルメットをかぶった「府高連」などによる校長室占拠が起きていた(赤ヘルは共産同・社学同系組織がかぶった)。「校務分掌任命制度による校長権限強化」に反対するもので、学校占拠もヘルメット部隊も高校初の出来事だった。

 高校闘争は、まず関西から始まり、次に東京へ中心が移り、急速に全国へ波及していった。69年春の「卒業式闘争」(卒闘)は、その露払いだった。

 都内では、3月に入ると、足立高校、武蔵丘高校、九段高校、都立大付属高校で、各校の活動家と党派の組織が、卒業式を妨害し、中止に追い込んだ。

 中でも武蔵丘高校は、私の高校と同じ第三学区に属し、親近感もあったから、3月13日の「卒闘」には強い衝撃を受けた。

 「MO反戦」と「反戦高協」の白ヘルメット(白ヘルは革共同・マル学同系組織)をかぶった20数名が式場に乱入し、椅子を壊し、窓ガラスを割り、消火剤を撒き、そのまま事務室と校長室を占拠した。

ヘルメット、覆面姿の高校生によって荒らされた東京都立武蔵丘高校の卒業式の会場=1969年3月13日「卒闘」によって荒らされた東京都立武蔵丘高校卒業式の会場=1969年3月13日
 学校側は警官隊を導入し、現場で3人を逮捕、後にさらに3人を逮捕した。

 もっともこうした闘争は、この年突然始まったわけではない。

 実は「卒闘」の歴史はかなり古い。ヤジによる進行妨害や送辞・答辞による学校批判は、1950年代からあった。60年代半ば以後はベトナム戦争批判も加わり、より政治的になった。

 ただ、高校生の活動家たちに決定的な転換をもたらしたのは、やはり、67年の「10・8羽田闘争」である。

 「10・8」(ジッパチ)は、「首相訪米阻止」という60年安保闘争の形式を踏襲した「カンパニア闘争」(大衆動員型の行動)だが、学生たちの意図的な暴力行動はその枠組みを内側から破壊し、従来の学生運動の様相を変えてしまった。

 69年春に新宿高校を卒業した竹川義男は、「10・8」にふれて、「それは現代の闘いは妥協のないかたちで推し進められなければならないことを、闘いによって明らかにし、同時に、攻撃型の闘いの中に、現代のマス化された状況を打倒する可能性を発見していった」と書いた(「高校生運動の論理と展開」、しいら書房編著『世界は業火に包まれなければならない』、1969、所収)。

 彼はさらに言い換えて、組織の拡大を第一義とする「サークル運動主義的」な高校生運動は、「10・8」を契機に「自らが闘うことによって状況を変革するという、大衆的決起を内にふくんだ運動」へ転換を遂げたと見た。

 少々横道へ逸れるが、この「転換」について補足しておきたい。

 68年の、佐世保・王子・三里塚などの現地闘争、「4・28」や「10・21」などの政治闘争、日大・東大などの大学闘争を経て、反体制運動の暴力化は急速に普及していった。背景には新左翼系党派の競い合いもあったが、もうひとつ決定的な要素は、人々の暴力に対する容認もしくは支持である。

 活動家たちは、60年安保闘争以来、舞台に姿を現わすことのなかった「大衆」が、街頭や学園に躍り出てきた、と感じていた。その「大衆」は、10年前の「声なき声」の人々よりずっと不定形で捉えどころがなく、政治的信条も明確ではなかったが、その分だけ、情緒的で刹那的で破壊的だった。つまり、暴力的だった。

 ことに60年代、急激に膨れ上がった大学生は、こうした新しい都市大衆の先頭に立った。彼らは現状に不満であり、その現状の再生産のために社会へ呑み込まれることに強い抵抗感を持っていた。暴力は(唯一ではないが)、その怒りを端的にぶつける方法だった。

 政治の本質は、高度な組織化のプロセスである。同じ思想を持つ同志の量的拡大こそ、その指標である。各セクトの派手な街頭闘争も、自派の宣伝の一環ではある。しかし、暴力の行使は、そのような組織拡大一辺倒の政治主義からはみ出す、“今ここの”意志の表明として、かつ、抑え込まれてきた自身の解放として感受された節がある。

 69年の高校の「卒闘」にも、暴力の行使は不可欠だった。それは、「高校三年間という、資本主義における『人生』のベルトに乗っていた生活の欺瞞性を暴露」し、文部省と学校が結託して進める教育政策を弾劾し、政治活動の自由を奪い返すとともに、「高校における日常性、そしてそれ自体が持つ暴力、体制補完の本質を明らかにし、その構成員としてあるすべての高校生を告発する」ものだった(前掲書)。

 竹川の言葉の中に、69年高校闘争の「意味」はほぼすべてつめ込まれている。前年来の全共闘運動で語られた「自己否定」や「大学解体」は、実質的に義務教育化された後期中等教育において、こうした言葉に翻訳されたのである。

 東京の高校闘争のピークは69年10月だった。

・・・ログインして読む
(残り:約747文字/本文:約3894文字)