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市川雷蔵特集が東京・新宿にやってきた!(3)――三隅研次監督の不気味な傑作、『剣』 

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 『薄桜記』を撮った森一生より10歳年下の三隅研次監督(1921-1975)も、全盛時の大映の屋台骨を支えた第一級の職人/作家だった。

三隅研次監督(―1975)三隅研次監督(1921―1975)
 そして森一生同様、市川雷蔵とコンビを組み、何本もの傑作、秀作を撮ったが、今回の雷蔵特集では7本の三隅作品が上映される。

 すなわち、“剣三部作”と呼ばれる『斬る』(1962)、『剣』(1964)、『剣鬼』(1965)、さらに『大菩薩峠』(1960)、『眠狂四郎』シリーズ3本――「勝負」(1964)、「炎情剣」(1965)、「無頼剣」(1966)――だが、本欄ではまず、異色の“スポ根もの”、『剣』(白黒)を取り上げる。

 80年代の中頃、都内の名画座で三島由紀夫原作の現代劇、『剣』を最初に見たときの印象は、ひどく不気味な、何か病的な匂いさえする、しかし抜群に面白いスポーツ映画だな、というものだった。

 そして先日、DVDで本作を見直した私は、かつてとまったく同じ感想を持った。もちろん、そうした感想は、三島の原作に顕著な死への憧憬、「反時代的なロマン主義」、ひいては彼の市ヶ谷台での割腹自殺(1970)の記憶と無関係ではない。

 が、それについては後ほど触れるとして、三隅研次の『剣』は、何より映画それ自体として、なんとも禍々(まがまが)しく、不気味なのだ。まったく、これほど爽やかさや「感動」と無縁の“スポ根映画”も、またとあるまい。

 『剣』の不気味さを強めているのは、モノクロ画面に光と影の対比を鋭く刻みこむ三隅演出の卓抜さとあいまって、37歳で早世した美男俳優・市川雷蔵が演じる、主人公の大学剣道部主将のキャラクターだ。

 幼い頃から、「強く正しくあること」が強迫観念と化している彼は、濁世(じょくせ)に背を向け、剣道に打ちこみ、ときに死への衝動を内に秘めているかのような虚無的な顔をのぞかせる。そして端的に言って、その内部で強烈な生命力が、死への衝迫(しょうはく)と危ういバランスを保っている青年をリアルに演じられるのは、市川雷蔵という俳優以外には考えられない。

 つまり、時代劇コメディでは軽妙なおとぼけ演技を見せ、出世作『新・平家物語』(溝口健二、1955)では豪胆な若武者/平清盛を好演した雷蔵だが、しかしその役者としての真骨頂は、何といっても、「ここにいながらここにいない」(川本三郎)ような、いつも死を見据えて行動するような、虚無的なクールさにあったのであり、したがってそれこそが、『剣』の主人公の行動的ニヒリズム――“今この瞬間”のみを全力で生きる――にぴたりとシンクロしているのだ(本作は雷蔵みずからが映画化を企画。なお以下ネタバレあり)。

――東和大学剣道部の主将・国分次郎(市川雷蔵)は、前述のごとく、「強く正しく」をモットーに、剣道一筋に生きていた。女にも勉学にもテレビにもまったく無関心な、ストイックで潔癖症的な国分は、剣道の実力も他に抜きんでていたが、そんな彼を、新入部員の壬生(みぶ:長谷川明男)は崇拝し、生き方の手本としていた。

 いっぽう、国分の同級生である賀川(川津祐介)は、やはり剣道の猛者(もさ)でありながら、軟派で現実的な男で、硬派の国分をうとましく思っており、彼の見せる“強者”の微笑に不快感を覚えていた。賀川は、国分は虚勢を張って英雄を気取っているだけだと、部員たちや木内監督(河野秋武)に言うが、賀川の意見に同調する部員も多かった。

 そんなある日、賀川は大学一の美人・伊丹恵理(藤由紀子)に、国分を誘惑させる。後日恵理は賀川に、国分が自分のスカートの下に手を入れてきた、と報告する。

 国分の弱みを握ったと思った小悪党の賀川は、ちょっとした優越感を覚える(この恵理をめぐるエピソードは三島の原作にはないが、これを加えることで、映画は物語的にもメリハリがつき、原作よりいっそう面白くなった。このエピソードを着想した、三隅およびスタッフのアイデアに感服)。

 海辺での夏の強化合宿も終りに近づいた頃、国分のみごとな統率力に嫉妬し反発した賀川は、国分が木内監督を迎えに行った隙に、国分が厳禁していた海水浴に部員らを誘う。ためらう部員らに、賀川は国分が恵理の体を求めたことを告げる。

 賀川の“偶像破壊”は巧を奏し、部員らは走って海に入る。ただ一人、壬生だけが合宿所に残る。やがて、監督とともに合宿所に戻った国分は、海水浴から帰ってきた部員らに出くわす(壬生も同調圧力に屈したせいか、パンツ一枚になって他の部員らの間にまぎれ込んでいた)。このあたりの集団心理、ないしは集団の力学/集団の動き方の描写は、原作も映画もじつに巧み、かつ不気味である。

 また、ここでの部員らは、ちょっとしたきっかけで右にも左にも動く、<大衆>のメタファーでもあるかのようだ。

 さらにまた、こうした部員らの振る舞いは、三島由紀夫の「決起」のさいに、彼の演説にまったく耳をかさず彼にヤジを飛ばした自衛官らをも、ちらりと思わせる。事実、合宿の終盤で部員らを統率しきれなかった(しかも愛弟子の壬生にさえ裏切られたと思い込んだ)国分は、うなだれたまま立ち尽くすが、壬生はその主将の姿に彼の敗北をみる。

 そして納会の日、国分は部員らに「よくやった」とねぎらいの言葉を述べ、宴席の最中にひそかに姿を消す。しばらくして、国分のいないのを不審に思った部員らは、海辺を捜索し、林の中で、胴を着け、竹刀を抱えたまま自死している主将を発見する(この直前の、モノクロでしか撮れない、靄(もや)のかかって鈍く黒光りする未明の海面のショットが凄い)。

 国分の通夜で、恵理は賀川に語った例の誘惑の件はすべて嘘だったと告白する。木内監督はといえば、原作どおり、「国分は自殺することで自分の強さと正しさを永遠にしたのだ」という意味のセリフを言う(三島の死生観をストレートに表すセリフにも思える)。

 しかし、木内監督のセリフを敷衍(ふえん)すれば、国分の自殺は、その死に姿を他者に見られることを、つまりスペクタクル(見世物)化されることを計算に入れた死である点で、他者への示威行為だということになる。いやそもそも、監督の言葉を俟(ま)たずとも、国分の自決は、自らの信念を裏切り者たちにアピールする究極の手段/ボディー・ランゲージであったと思われる――。

 このように、『剣』で描かれるドラマをなぞっただけでも、私の中でこの映画の不気味な感触はまざまざとよみがえってくる。

 くりかえすが、私がこの映画を不気味だと感じる最大の理由は

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