鷲田清一、徳永進 著
2014年08月28日
タイトルだけを見て、「ケア」に携わる人のみが対象の本だと即断しないでほしい。
『ケアの宛先――臨床医、臨床哲学を学びに行く』(鷲田清一、徳永進 著、雲母書房)
臨床医である徳永氏には「臨床を捉え直す違う視点を教えて欲しい」という願いがあり、近年の著作で「臨床哲学」を提唱している鷲田氏との対談が実現した。副題に「臨床医、臨床哲学を学びに行く」とある所以である。
最初、タイトルにある「宛先」という言葉が気になって、本書を手に取った。
「宛先」と「ケア」にはどういう関係があるの? 「宛先」はケアする者にとっての「宛先」? ケアされる者にとっての「宛先」? 「宛先」の語に込めた意味は?
こうした疑問はもちろん、すぐには解消されない。しかし「宛先」の語が用いられる複数の文脈に触れながら読み進めるうちに、それをめぐる両氏の意見や考えに唸らされ、自らの体験や実感が逆照射されていく。そして読み終える頃には、「宛先」の語がきちんと腑に落ちている。
「宛先」の種明かしをしてしまおう。これから本書を読む方たちが得られるはずの醍醐味を軽減させるとは、決して思えないので。
「宛先」とは「目の前の人」であり、近代の知が喪ってしまったものである。そしてその影響が、現代のターミナルケアの現場にも及んでいる、というのだ。逆から言うと、「宛先」を回復することで、近代が喪ったものをケアの現場にも学問の現場にも取り戻せる可能性がある、ということになる。
鷲田氏は言う。「近代の学問の危うさというのは、宛先がないことなんです。つまり、学問というのは、ありとあらゆる人に普遍的に客観的に妥当するものじゃないといけない~中略~誰に向けて技術を使うのかとか、誰に向かってこの学問を伝えるかという、目の前の人が消えちゃったんです」。
さらに宮本常一が紹介した石積工を引き合いに出し、「目の前の人」とは同時代人である必要はない、100年後の後世の人でもいい。ただし、恥ずかしくない仕事をした、と胸を張れる相手でなければいけない、と。
徳永氏も、医療者としての知識や技術は当然持っていても、それらをいったん無いものとみなし、ただ目の前の「患者さんが考えていることを想像して声をかけているのか」が現場では常に問われている、と述べる。
「宛先」が回復されれば、具体的には「老病死」を、そして本当の「笑い」を取り戻せる、と両氏は言う。子育ても介護も終末期のケアも、すべて家の外の業者に頼んでやってもらえる現代は、身内に対してさえ、「目の前の人」として向き合う機会を奪っているのだ。しかし介護でも看病でも、「目の前の人」として相手と正面から対峙する経験が持てると、「老病死」が「自然なこと」「当たりまえのこと」として捉えられるようになる。
言うまでもなく、その現場とは奇麗ごとの通じない世界であり、思い通りにならず、どうにもならないことだらけである。しかしだからこそ、ケアされる者とする者、両者のままならない身体の在りように、意識で統御できない事態に、思わず「笑い」が起きる。
愛する家族の臨終の場面でオシッコをもよおした少女、お葬式でお坊さんより速く、上手に般若心経をあげてしまった3歳の男児……。不謹慎かどうかという判断をする間もなく、私自身何度も、腹の底から笑ってしまった。つまり、深刻で困難な時こそが、実は人にユーモアと笑いの在り処を教えてくれることを確認できるのだ。
本書は死に臨む現場、すなわち死の臨床のエピソードに溢れている。しかも各エピソードが「現場と往復しながら鍛え上げられていく観念」の言葉で裏打ちされることで、ケアの現場にいる人にも、現場にいない人にも、「いま、大切なことは何か」について考え、気づくヒントを与えてくれる。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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