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[15]第4章「舞い降りたバリケード(2)」

「期待される人間像」と学校群

菊地史彦

 1960年代後半、高校生はいったいどのような環境の中にいたのか。

 ひとまず、戦後の中等教育の歴史を概観してみよう。

 1950年代は、敗戦後の「教育民主化」に逆行する政策が、やつぎばやに打ち出された。第3章でも見たように、日教組と文部省が全面対決した時代でもある。「戦後民主教育」に代わる「産業人材教育」へ、新たな軌道の図面が引かれた時期といってもいい。

 注目すべきは、1951年に出された中等教育に関する「政令改正諮問委員会の答申」である。中学校からの普通コースと職業コースの分離、総合制高校の分解と学区制の廃止、「職業教育の尊重」による普通課程と職業過程の差異拡大、6年生高校・高専の設置、教育委員会の任命制、教科書検定制度の改定など、その後の教育政策の原型がほとんど盛り込まれていた。

 学習指導要領の改訂も重要である。56年の改訂では、普通科に5類型(コース)を設け、実質的には進学・就職の区別を明確化した。60年の改訂では、各教科にA・Bの内容差がつけられ、普通科・職業科、全日制・定時制などの格差を広げた。

 教科書検定も50年代から急速に強化された。53年には、学校教育法改正で検定権者を文部大臣とする旨を明示し、56年には教科書調査官が設置された。63年には、「教科書無償措置法」によって、義務教育教科書の無償配布ととともに、「広域採択制」や教科書出版企業指定制などの統制策が導入されている。

 60年代は、政府が、産業界の要請を受けて、高度成長期にふさわしい人材育成を、教育政策の中軸に据えた時代である。

 「所得倍増」を唱えた池田勇人首相は、就任以来、ことあるごとに「人づくり」の重要性を語っていた。それに同調するように、文部省は、『日本の成長と教育』(1962)で、「教育投資論」を軸に新たな国民教育の考え方を示した。

 さらに1963年には、経済審議会の答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」が出ている。同答申は、能力主義の徹底を標榜し、「ハイタレント・マンパワー」の養成と尊重の必要を唱えるとともに、各自が自らの「能力・適性」に応じた教育を受け、それによって得た職業能力を活用することを求めた。これが高度経済成長下の中等教育の基調となったのである。

 一方、高校進学率は、1961年には60パーセントを、65年には70パーセントを超え(いずれも全国男女平均)、急激に上昇した。並行して、高知県から始まった「高校全入運動」は全国へ広がり、高校増設を求めたが、文部省はこれを「素朴なそして機械的な教育の機会均等観」(「高等学校生徒急増対策と“高校全入運動”の可否」、1962)と批判し、高校以外の教育機関の必要性を説いた。

 1966年には、中教審答申「後期中等教育の拡充整備について」が出た。教育評論家の田代三良によれば、それは「戦後の教育改革の総決算ともいうべき」(『高校生』、1970)内容を含んでいた。また、同答申は、「期待される人間像」が付記されたことでも知られている。

 答申本体の骨子は、中等教育の改革が先進国の共通の課題であるという認識から始まっている。教育の機会均等がある程度進んだ戦後日本にとって、「国家社会の形成者として、またその経済的、社会的発展のにない手」である青少年の教育こそ喫緊の課題であるという考え方だ。その観点から見ると、現行の高校教育は、生徒の適性・能力の「多様化」にも、社会の要請の「多様化」にも対応しておらず、あまりにも「画一的」である。

 答申が危機感を持って槍玉に上げたのは、「学歴という形式的な資格を偏重」し、「知的能力ばかりを重視して、技能的な職業を低く見たり、そのための教育訓練を軽視したりする傾向」である。一見正論に見えるが、普通科への進学比率を下げ、職業科への進路を誘導するのは、当時の産業界が大量の中級技術者を求めていたからだ。

高坂正顕拡大高坂正顕
 「期待される人間像」の方は、読みかえしてみると、「戦後民主主義」をうまく逆手に取り、高度成長期の保守思想へ再編成すべく、周到な構成がなされていることが分かる。

 中教審第19特別委員会の主査を務め、執筆にあたった高坂正顕(哲学者)が、その考え方を説明している。

 高坂によれば、「教育基本法そのものに否定すべき点は何ものもない」が、その精神がどの程度「日本の精神風土に定着したかということについては問題がある」以上、それを「生かすための方策」が求められるというのである。

 高坂たちが採ったのは、憲法と教育基本法に含まれる4つの理想(民主国家、福祉国家、平和国家、文化国家)を実現する「人間のあり方」を描くことで、中等教育の目的を明らかにするという方法だった。しかし、そこには巧みな「要請」が仕込まれている。

 いわく、福祉国家・文化国家となるためには、「人間性の向上と人間能力の開発」が必要であり、平和国家になるためには、知恵と勇気ばかりでなく、「たくましさ」が必要である。そして、民主国家の実現のためには、「自我の自覚」と「社会知性の開発」が求められる。

 日本と日本人のあるべき姿を実現するには、多くの不足があり、それらを充足させるために、我々はもっと自身を鍛えなくてはならない――憲法と教育基本法に起点を求めながら、国家が要請する人材の「仕様」へ論理を旋回させていくところに、「期待される人間像」の特徴がある。

 そのような総論(第1部「当面する日本人の課題」)の次に、「日本人に特に期待されるもの」(第2部)が各論として述べられる。第2部は、第1章から4章まで、「個人として」「家庭人として」「社会人として」「国民として」と章題が付され、「個」が順を追って上位の共同体に編み込まれていく過程が、簡潔だが隙なく描かれている。

 当時この文章を読んだ私は、半知半解ながら生理的な嫌悪感を覚えた。高坂が一員であった京都学派が、戦前、海軍に接近したことは知らなかったが、一見隙のない論理の中に、「個」を執拗にからめとるやり方を、狡猾と感じた記憶がある。

 たとえば第2部第1章「個人として」では、「個性を伸ばすこと」「自己をたいせつにすること」「強い意志をもつこと」といった、自律的な個人を認めるような言葉を振りまきながら、もう一言、「畏敬の念を持つこと」と加え、その個を全体へ吸い込んでいく。

 その「畏敬」とは、生命の根源への畏れであり、生命とは「精神的な生命」を含むものとされる。いわく、「人間の尊厳と愛」も「深い感謝の念」も「真の幸福」もすべて「このような生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念」に基づき、「しかもそのことは、われわれに天地を通じて一貫する道があることを自覚させる」という。

 しかも、こうした言説は、以下の章へ伏流として流れ込み、「家庭人」のあり方を「愛の場」「憩いの場」「教育の場」で絡めとり、同じく「社会人」を「仕事」「福祉」「創造」「規範」で括りつけた。当時の「民主勢力」は、「日本国を愛するものが、日本国の象徴を愛するということは、論理上当然である」といった文言に注目し、最終章「国民として」に批判を集中したが、私は、個を「家庭人」や「社会人」として、中間共同体に再編成していく論法の方に、気色の悪さを感じたように思う。

 もうひとつ、東京の高校生が巻き込まれたのは「学校群」である。 ・・・ログインして読む
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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。