川本三郎、筒井清忠 著
2014年09月04日
貯めた250円(小人料金)を握りしめて映画館に行く。狙いは、なるべく前の、横のドア。薄暗がり、中腰の小走りで大人の尻の山をかいくぐる。立ち見の先頭でうずくまり、耳をふさぎ、目をつむる(結末を観ないように)。
エンディングに近づくと、ガヤのうごめきがさざなみのように広がってくる。闇の中でまぶたをかすかに開き、目の端に捉えた大人の立ちかけた空席にささっとすべり込む。これが子どもの着席テクニック。
『日本映画 隠れた名作――昭和30年代前後』(川本三郎、筒井清忠 著、中央公論新社)
数分後のブザーとともに始まるモノクロ作品、それがプログラム・ピクチャー(映画プログラムの埋め草、60分から90分の中編)である。本書はこれを「隠れた名作」と呼ぶ。
サブタイトルにあるように、昭和30年前後の「名作」が中心。昭和19年生まれの川本三郎、昭和23年生まれの筒井清忠のふたりは、昭和36年生まれのわたしとは10年以上ズレがある。わたしなど観たことも聞いたこともない「名作」が、立て板に水の勢いで語られる。
啞然とするしかないが、映画のロケ地めぐり(とくに東京下町近辺)の蘊蓄を語る川本と、政治史が専門の筒井は、おかまいなしに読者を置いてきぼりにする。?(ハテナマーク)を点灯する隙も与えないのである。
「はて、この映画はいかなるシチュエーションの話なのかな?」と推測に頭を巡らすうち、いつしかとてつもない映画的知見の渦に巻き込まれてしまう。
正直な話、わたしのわずかな個人的経験に照らしても、プログラム・ピクチャーはお目当てのメインより7、8割方は面白いのである。なぜか。
短期間で仕上げる必要から、ほとんどはオリジナル脚本でなく(企画を通す必要から一流の文学者の)原作があること。それも必然的に長編ではなく短編が多い。話の骨子もオチもしっかりしており、失敗作の可能性が少ない。
ベテラン監督のばあい、冒険せずに会社の注文通りの職人技で作る。逆に若手監督の作品には、規格外の珍品や異色作が多い。どちらに転んでも面白いのである。
また、主役はともかく脇役はほとんどが無名。だからこそ画面内の演技から、作品への熱い情熱が感じられる。
一例を挙げれば、末期の大映の超大作『妖怪大戦争』の客が引けたあと、冒頭の子どもテクニックで席を確保した『蛇娘と白髪魔』の、光と闇のコントラストの見事なこと(この映画は、楳図かずお原作、松井八知栄・高橋まゆみ主演、湯浅憲明監督)。ロケなしのオールセット、キャストも無名という低予算。だのに、けばけばしいカラー大作よりも、ヴィジュアルで勝っていたのであった。
具体的に言おう。本書は単純に「名作」を羅列するわけではない。
第一章の「ふたりの映画回想」(チャンバラ映画の全盛、戦争の記憶など)を前振りに、以下四章に分けて、忘れられた監督の撮った「名作」を一気に振り返る。
第二章「戦後」の光景(家城巳代治、鈴木英夫、千葉泰樹、渋谷実、関川秀雄など)
第三章「純真」をみつめて(清水宏、川頭義郎、村山新治、田坂具隆など)
第四章「大衆」の獲得(滝沢英輔、堀川弘通、佐伯清、沢島忠、小杉勇など)
第五章「職人」の手さばき(中村登、大庭秀雄、丸山誠治、中川信夫、西河克己など)
「戦後」を切り取った「忘れられた」名監督の筆頭に挙げられるのが家城巳代治というのが、本書の全体像を浮き彫りにする。弘前高校から東大という太宰治と同じ経歴をもつ家城は、「アカ」の烙印を押され松竹を追放された監督である。
彼を受け入れたのは、清濁併せ呑む東映撮影所長のマキノ正博。彼は新興映画会社の制作トップにふさわしく、「俺は右翼でも左翼でもない。『映画党』党首だ」と宣言し、才能があれば右も左も受け入れた。
その結果生まれたのが、家城監督による特異な特攻映画『雲ながるる果てに』であった。実際に特攻隊機の整備士であった鶴田浩二が、役柄上では特攻隊員となり、特攻前夜、ヤケ酒を呑んで号泣する。近代史が専門の筒井すら「イメージと違った」と呟く作品なのである。
これらの監督を採り上げたことに、個別に異議を唱えることはいくらでも可能である。
押しも押されもせぬ名匠の清水宏や田坂具隆が入っているのは異様であるし(それにプログラム・ピクチャーで括るなら、世界的巨匠と化した成瀬巳喜男も山ほど撮っている)、再評価されて今が旬になっている鈴木英夫(「目白三平」シリーズ)と中川信夫(『東海道四谷怪談』)は、「忘れられた」どころの話ではない。杉江敏男(『三十六人の乗客』)や春原政久(すのはらまさひさ)(『愛の一家』)だって採り上げてほしいじゃないか。
だが問題の本質はそこにはない。
本当は著者二人は、家城を筆頭とするプログラム・ピクチャーの監督たちの方が、黒澤や小津や木下恵介や成瀬巳喜男や今井正や内田吐夢や今村昌平や小林正樹や市川崑よりも、はるかに好きなのである。ずっと尊敬しているのである。
つまり「忘れられた」かどうかなど本当はどうでもよくて、絶対的に好きな監督の、絶対的に好きな映画作品について弁じ立てているのである。だからこそ、その語りは、触れば火傷しそうなほどに熱いのであった。
わたしは今、夢想している、ウィリアム・ワイラーやスタンリー・クレイマーのことを。彼らも押しも押されもせぬ巨匠であったが、今は「忘れられた」。誰も論じることはない。誰か、語ってはくれまいか。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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