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[16]第4章「舞い降りたバリケード(3)」

私自身のための闘争

菊地史彦

 当時の後期中等教育の政策に触れたが、文部省がなんと言おうと、高校生の最大の関心事は大学受験だった。

 私たちは、最高学府の学歴が、豊かで安定した人生へのパスポートと信じた最後の世代に属している。ゆえに実業高校への進学は忌避されたし、だからこそ、葛西工業に代表される実業高校の闘争は重く受け止められた。

 受験のプレッシャーが、長い影を高校生活に落としていたのは確かである。ただし、当時の高校生が抱えていた無力感は、受験の向こう側に垣間見える社会の閉塞感からも来ていた。

 学歴の「効能」はまだ信じられていたが、色褪せてきていた。前著『「幸せ」の戦後史』(2013)で述べたように、団塊世代は、世代間階層上昇(子が高等教育の学歴によって親の階層を越えること)の終了を目の当たりにした最初の世代である。

 「大学の大衆化」とともに、難関大学に進む上位階層の子弟が、高確率で階層相続に成功することが明らかになった。戦後の「大きな物語」であった階層上昇は一時の夢だった――その衝撃は全共闘運動を裏から突き動かし、ひいては高校闘争に及んでいたように思う。

 もっとも、そのころ、このように視界が開けていたわけではない。

 当時の私には、何も見えていなかった。

 入学して最初に聞かされたのは、「勉強の大泉、クラブの石神井、恋愛の井草」という、各校の性格を言い当てたキャッチフレーズである。井草は女子生徒比率が高く、男女交際に都合のよい「軟派校」であることを意味していた。

 このような世間的評価を耳にして、悄然とした生徒は少なくなかった。練馬区・江古田の中学校から進学した私は、中学時代こそ、計画遂行型のガリ勉として学年2~3位を維持していたが、高校に入学した瞬間に勉強というものにすっかり関心を失った。

 てっきり、進学校の大泉に入れるものと思っていたから、井草に回されたショックもあった。でも、原因はそればかりではない。遅ればせながら、「自我」のようなものが目覚めたのだ。

 「自我」の覚醒とは、私の場合、とりあえず勉強からの逃避だった。

 教科書や参考書を開く代わりに、まずクラブ活動で卓球に打ちこんだ。精妙な技術が求められ、メンタル面の弱さがすぐゲームに出る難しいスポーツだけに、少々の練習では腕が上がらない。じきに頭の中は卓球でいっぱいになり、少年期に夢中だった魚釣りにも関心を失って、家族が心配したほどだった。

 白いセルロイドのボールを追いかけ回していると、それだけで世界は完結すると思える瞬間もあった。しかし、さして技量の向上しない私は、2年生になる頃、卓球にも「限界」を感じ始めていた。あれはいつのことだったか、第三学区の大会で、実に無残な負け方をした時、いまふうにいえば、心が折れる小さな音を聞いた。

 この頃の感情は、正直に言って、うまく言葉にできない。

 学業の方は、もともと弱かった理数系が完全についていけなくなった。それ以上に、教科書に向かうと虚脱感に襲われて、手もアタマも動かなくなった。深夜放送をぼんやり聴きながら、気になる女子生徒のことなどを考えていると、じきに夜が明けた。定期考査の初日だというのに、何も準備できていなかったりした。

 かなり苦しい時期だった。自分も学校も世の中も何も見えず、語れず、酸欠状態の観賞魚のように口をぱくぱくさせて喘いでいた。

 しかし、こうした症候は、私だけのものではなかったらしい。

 たとえば村上龍は、小説『69 Sixty nine』(1987)で次のように書いた。主人公は長崎県立佐世保北高校に通う、村上の(戯画化された)自画像である。

 1969年の、春だった。
 その日、三年になって最初の一斉テストが終わった。僕の、テストの出来は最悪だった。
 一年、二年、三年と、僕の成績は圧倒的に下降しつつあった。理由はいろいろある。両親の離婚、弟の不意の自殺、僕自身がニーチェに傾倒したこと、祖母が不治の病にかかっていたこと、というのは全部嘘で、単純に勉強が嫌いになっただけだ。
 だが、その頃は、受験勉強をする奴は資本家の手先だ、という便利な風潮があったのも事実である。全共闘はすでに力を失いつつあったが、とにかく東京大学の入試を中止させてしまったのだ。
 何かが変わるかもしれない、という安易な期待があった。その変化に対応するためには、大学などを目指してはだめで、マリファナを吸う方がいい、というようなムードがあった。

「10・21国際反戦デー」の1969年10月21日、東京都内各所で学生と機動隊が衝突、深夜まで催涙ガスと火炎ビンが飛びかった。交番や警察署への襲撃が目立った。午後9時半ごろ、新宿三光町の四谷署・御苑大通り交番が学生に襲われ、火を吹いて全焼した拡大1969年、「10・21 国際反戦デー」で、学生たちの火炎瓶によって全焼した東京・新宿三光町の四谷署・御苑大通り交番
 もっとも、全共闘もマリファナも、こちらの近くには到来していなかった。私は「受験勉強をする奴」の得意げなようすに対抗するものを、何も持っていなかった。

 夏が過ぎて秋風が立ち、17歳になった頃、はじめて日記を書くようになった。現実と向き合うのがつらいので、心中のくしゃくしゃしたこだわりを書きつけていた。

 これが、「自我」の目覚めの、第二段階である。

 たとえば、1969年10月21日付けの文章が残っている。

 この日、新左翼各党派は、前年の「新宿騒乱」の再発を狙って、新宿・高田馬場でゲリラ戦を展開、1500人以上が逮捕された。先に書いたように、青山高校には機動隊が導入された。私もこうしたニュースをテレビで見ていたはずだが、記された詩のような呻きのような文章は、完全に内側を向いている。

 夜が来た
 厚ぼったい夜
 これと一晩戦うのはたいへんさ
 ほんとうに心底疲れ果てちまう
 そしてやがてやってくる夜明けのうす明りはせつない
 このせつなさは何かで埋められない
 だから、それを抱きかかえて寝床に潜り込む
 つまさきは冷え切っていて
 あたまは微熱にうかされている
 この熱は青春とかいうものか?

1969年 10.21国際反戦デー 都立青山高校から火焔ビンや投石をした高校生らを制圧、屋上に可掲げられていた旗を倒した機動隊員 都立高へ機動隊拡大1969年10月21日、都立青山高校の屋上にかかげられていた旗が機動隊員によって倒された
 笑ってしまいそうな文章だが、実は、今でも笑えない。これが17歳になったばかりの私が吐き出せる精一杯の言葉だったからだ。

 自分の頼りなさに直面し、その危機を回避するために、危地にある自分を相対化する方法はこれぐらいしか思いつかなかった。

 そして(自分で言うのもおかしいが)興味深いことに、本章冒頭に書いた修学旅行の後、日記には、自身の人間観や世界観を訂正すべき時が来たと記されている。

 このあたりから、変化が起きている。

 実際には書き込まれている個人名を外し、要旨をかいつまんでみると、こうなる。 ・・・ログインして読む
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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。