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[書評]『ゴキブリ大全 新装版』

デヴィッド・ジョージ・ゴードン 著 松浦俊輔 訳

高橋伸児 編集者・WEBRONZA

なぜ愛することができないのか  

 僕はゴキブリが部屋の隅に這い出ているのを見つけてもわりと平然としているタチだが、気が向いたときは手元の雑誌か何かを丸めて振り下ろしたりする。たいがいムダに終わるのだが、この本を読んでその理由が生物学的に腑に落ちた。

 ゴキブリは頭に神経球(脳)があるのと同時に、尾にも神経球があり、その前と後ろは太い神経繊維でつながっている。そのため、ある刺激が神経系の端に到達するまで0.003秒しかかからない。尾に刺激を受けてから脚が動作を開始するまではなんと0.045秒。まばたき以下のスピードだ。

『ゴキブリ大全 新装版』(デヴィッド・ジョージ・ゴードン 著 松浦俊輔 訳、青土社) 定価:本体2400円+税拡大『ゴキブリ大全 新装版』(デヴィッド・ジョージ・ゴードン 著 松浦俊輔 訳、青土社) 定価:本体2400円+税

 だから、どんなにそうっと、どんな角度から振り下ろしても、そこで発生するわずかな風によって、あっという間に逃げられてしまうのだ。力でとても対抗できる相手ではない。

 しかも何回か通っただけで自分が進む複雑なルートを記憶できるほど、かなり頭がいい。俊敏にして知的。もっとも、15分おきにおならをしているというから行儀はよくない。

 本書はこのようなゴキブリの知見が満載だ。

 なにせ「大全」(complete)である。ゴキブリ3億4000万年の歴史、種の違い(3500種もあるとは!)、からだの構造、生態、習性、性、食事、人間の文化とのかかわり、そしてゴキブリの食べ方からペットにする方法(おびき寄せるのに適した懐中電灯から、罠、飼育器、エサの種類、温度管理まで懇切丁寧)まで、これでもかといわんばかりの情報量。

 なにせ「大全」であるから、写真も豊富(もちろんゴキブリの)。装幀も当然ゴキブリ。茶色のゴキブリが箔押しされたカバーをはずすと、白い表紙の左上に黒いゴキブリ(寝床に置きっぱなしにして、あとでこの本にふと目をやった途端、一瞬「うわっ!」と叫びそうになった)。

 超文系の僕には、昆虫学的な記述はあまり頭に入らなかったのだが、ゴキブリは古い本の製本で使われた金箔や糊が大好物だとか(蔵書家はご注意!)、ゴキブリの求愛・前戯・合体の仕方とか(交尾は種によっては4時間!)、ベトナム戦争で米軍がベトコンゲリラの集会所と疑われる場所に雌ゴキブリのフェロモンを散布し、そのあと村の住人を集めて雄ゴキブリのそばを歩かせたら、一部の人にだけ雄ゴキブリが寄ってきたことからベトコンを見つけ出したとか、ジャズシンガーのルイ・アームストロングは、病気になるとゴキブリの煮汁を飲まされていたとか(あのしわがれ声がそのせいかは定かではない)、19世紀のある作家はゴキブリのペーストをパンに塗って食べたとか、ゴキブリが主役になった演劇作品が上演されたが観客から大ブーイングを食らったとか、とてもここでは書けない気味の悪い被害とか、役に立つような、立たないような、ウンチクばかり記憶に残ってしまった。

 僕なんか、面白すぎるこうした知識を飲み屋とかで面白おかしく披露したくてしょうがないのだが、間違いなく嫌がられるだろう。そう、原書のサブタイトル通り、ゴキブリは「地上で最も嫌われる(しかもほとんど理解されていない)生物」だから。

 なぜゴキブリはかくも嫌われるのか。

 調査によれば、もともと4歳になるくらいまでは子どもはゴキブリに嫌悪感を示さない。だが、両親からゴキブリは不潔で、さわったり口にしてはいけない、と教えられること、つまり「学習」によって嫌いになるのだという(ゴキブリには病原菌を運ぶとか人の食糧を食べるという「実害」はあるものの、害を与える生物はほかにもいるわけだから、ここまで嫌われるというのは別の話だろう)。これは「憎悪」「嫌悪」という人間の感情を考えるうえで示唆に富む。

 もっとも、この手の「嫌われもの」(蜘蛛でもムカデでもいいのだが)の本を読むと、あれほど毛嫌いしていたのに親しみが湧いてきた、なんて書評はよくあるが、この本をいくら熟読してもゴキブリにまったく親近感がわかないのは不思議である。

 そこは、生物学者である著者が、おそらくかなりのゴキブリ好きであるにもかかわらず、ゴキブリは世界一の嫌われものから逃れられないという諦念を滲ませているからだ。それゆえ、ゴキブリ退治法を終章に持ってきて、読者を安心させざるを得ない。

 さて、その退治の手段として、殺虫剤をはじめ、エレクトロニクス装置、ゴキブリ遺伝子の損傷など、役に立つような、立たないような方策がたくさん紹介されているが、ゴキブリを殲滅させる決定的な作戦がある。

 それは大規模な核戦争を起こすことだ。ゴキブリは放射線への耐性が強いためそれでも生き残る種があるものの、核戦争による火災と、煤と煙の雲による気温の急激な低下、食糧危機によって結局全滅するという。

 しかし、だ。核戦争後の地球で進化の歴史が何十億年かけて繰り返されても、最初に陸上に現れる生物はゴキブリのようなものである可能性が高い、という。

 このくだりは本書の締めくくりにあるのだが、ある意味、ゴキブリに対する人間の敗北宣言だろう。

 先日、博覧強記の作家から「人が勉強するのは、自分がいる位置を客観的に知るため」とうかがって、なるほど、と思ったのだが、この本は「ゴキブリ」の視点から、傲慢さを増す人間の位置を客観的に知る機会になる、と言えばおおげさだろうか。1999年初版のこの本が、いま新装版として刊行されたのも実にタイムリーなことだ。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

高橋伸児

高橋伸児(たかはし・しんじ) 編集者・WEBRONZA

1961年生まれ。「朝日ジャーナル」「週刊朝日」「アサヒグラフ」、論壇誌「論座」、PR誌「一冊の本」、単行本・新書の編集部を経て、2011年から言論・解説サイトWEBRONZA(朝日新聞社)の編集者。つくった本は、『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』、藤崎康『戦争の映画史―恐怖と快楽のフィルム学―』、中島岳志『秋葉原事件』など。