2014年09月12日
ホウ・シャオシェン(侯孝賢)の東京を舞台にした『珈琲時光』(2004)では、ドラマチックな出来事は何も起こらない。
もちろん、ホウの初めての外国映画であるこのフィルムに、物語がないわけではない。だがそれは、画面をゆるやかに流れる時間のなかで、ほとんど起伏を欠いたまま淡々とつづられるだけだ。
そして、その穏やかな時の流れのなかに浮かび上がる、寡黙な人物/役者らのたたずまいや、思いがけないアングルで撮られた東京の街の表情に、えも言われぬ趣がある。
コーヒーの好きな陽子はしばしば、都内の小じんまりした古い喫茶店に行き、仕事をしたり、肇と他愛もない話をしたりして、心地よさそうに時を過ごす。
つぶやくような口調で静かに会話を交わす陽子と肇は、とても気が合っているように見える(ふたりの共通点は、けっして感情を高ぶらせたり強く自己主張したりしない、鷹揚(おうよう)でのほほんとしたところ)。
陽子は江文也の資料集めを兼ねて、東京の街をフットワーク軽く――といってもゆるやかな歩調で――あちこち歩き回ったり、お盆には高崎の実家へ帰ったりする。そして名手リー・ピンビンのカメラは、歩き回り電車に乗る陽子をフォローしながら、東京や東京近郊の風景を表情豊かに写しとってゆく。
『珈琲時光』では、陽子と肇の関係がそうであるように、陽子、肇、陽子の実父(小林稔侍)、継母(余貴美子)らの間にも、対立や葛藤は皆無だ。口数は少ないが、互いにほど良い距離感で親しく接している彼・彼女らは、フレームの中にじつにリアル、かつナチュラルに収まっている。むろん、その“ナチュラルさ”は役者の自然体の演技などではなく、ホウによって周到にコントロールされたものだ。
もっとも、JR新宿駅で気分が悪くなった陽子が肇を携帯電話で呼び出したり、彼女が両親に、お腹の子の父親である台湾の青年は超マザコンだから結婚はしない、と言ったりする場面は
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