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応援という病理――全米テニス決勝・チリッチ×錦織戦をめぐる“内向き“過熱報道に物申す(下)

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 錦織圭が決勝で敗れた日の「報道ステーション」での、東京のスタジオの松岡修造とニューヨークの錦織のやりとりの中継は、ある意味、面白かった。

 松岡は例によって、うーん悔しい!残念!……と暑苦しく連発したあと、圭、ボールをコートの真ん中に集めすぎだよ、ボールを左右に打ち分け、チリッチを左右に振らなければダメだったといった意味の、一見もっともらしい解説をした。

記者会見後のフォトセッションで、報道陣の求めに応じてガッツポーズをする錦織圭選手=13日午後、千葉県成田市帰国記者会見後のフォトセッションで=2014年9月13日、千葉県成田市
 私はその松岡の解説に強い違和感を覚えた。

 というのも錦織は、3セットを通じてチリッチに完全に試合を支配され、自分から前に踏み込んでボールをコントロールする(左右に打ち分けるなどの)余裕をほとんど奪われ続け、結果、試合の流れを自分に引き寄せることが出来なかったからだ(チリッチにチャンスボールを打たせることができず、逆にそれを自分が打たされてしまったから、と言ってもよい)。

 すなわちチリッチは、時速200キロ超のサーブのみならず、錦織よりも先に強烈なショットをそれこそ左右に打ち分け、ときにネットに出、錦織の甘いボールを繊細なタッチのボレーで決め、あれよあれよという間にポイントを稼ぎ、たった1時間54分で錦織を仕留めたのだ。どう見ても錦織の完敗である。

 つまり錦織は、サーブ以外の、自分の得意とするストローク戦――とりわけ自分のサーブ・ゲームでの――でも主導権を奪えず、逆にチリッチに鋭くストレートやクロスにボールを打たれ、攻勢に転じることが出来ずに敗れ去ったのだ。したがって、錦織はもっと左右にボールを散らすべきだった、という松岡の解説は、“応援バイアス”によって歪められた、まったく説得力に欠けるコメントである。

 要するに、松岡修造の「内向き応援解説」から抜け落ちているのは、世界第3位のフェデラー戦でもみられたチリッチの、パワーとテクニックを兼ねそなえた全米での盤石の強さへの、客観的な――思い込み=“応援バイアス”を排した――評価だ。

 松岡はまた、「チリッチが人生最高のテニスをしたことは間違いないが、それでも圭だったら勝てたと思う。チャンスはあった。(……)[錦織は]今大会の20%くらいの力しか出させてもらえなかった」と語っている(「朝日新聞」9月10日付)。これまた、「内向き」あるいは「負け惜しみ」と言われても仕方ない“敗戦後論”である(パワーと技を全開させた、いわば剛柔自在のチリッチのみごとな試合ぶりは、前述のとおり)。

 だいたい、チリッチのテニス人生はまだ終わっていないのだから、「人生最高」うんぬんは彼に対して非礼だし、錦織が決勝で約20%の力しか出させてもらえなかった、などというコメントは、そのように錦織の力を封じ込めたチリッチの強さ、テクニック、戦略の素晴らしさへの視点をまったく欠いている(錦織の今回の快進撃が「彼の人生で最高」などと誰かに言われたら、われわれはどんな気持ちがするだろう?)。

 そういえばTV放送の解説者・坂本真一も、全米決勝が終わった瞬間、今日のチリッチには誰も勝てない(ここは松岡とは違う<笑>)、チリッチはこんな試合はもう一度か二度しか出来ないだろう、という意味の、チリッチの実力の過小評価にもとづく、悔し紛れの“内向き非礼コメント”をしていた。こんなトンデモ発言をする連中をコーチにしなかった錦織は、まったくもって幸運であった。

 報道ステーションの中継に話を戻すなら、松岡修造の熱弁を聞かされていた錦織のリアクションが最高だった。

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