ジグムント・バウマン 著 伊藤茂 訳
2014年10月02日
ISIS(イスラム国)は米国人ジャーナリスト処刑などの残忍な暴力で世界中に衝撃を与えたが、二つの点で現在のグローバル世界が抱えた矛盾を突きつけたとも言えるだろう。
一つはカリフ制によるイスラム神政を宣言して国民国家を否定したことと、もう一つはヨーロッパから数千人とされる若者がイスラム国に合流し、多様性と寛容を旨とするヨーロッパ社会の危機を明らかにしたことだ。
『リキッド化する世界の文化論』(ジグムント・バウマン 著 伊藤茂 訳、青土社)
買いかぶりも含めてだが、多文化の包摂においては先進的だと思っていたヨーロッパですら、これだけのテロリズムに飛び込む若者を生んでいる。シンパは10倍、100倍といることだろう。民主主義や近代的制度の枠組みではもはや対処できない事態が、草の根から起きているという恐怖を感じざるを得ない。
そんなときに参照したいと思ったのが、英国の社会学者のジグムント・バウマンだった。
バウマンは、21世紀の世界を「リキッド化(液状化)」というキーワードで警告的な読み解きを続けている。今年88歳という年齢ながら旺盛に発言する姿勢にも感服する。
本書は、2011年にポーランドで開かれた「ヨーロッパ文化会議」での講演のために準備されたテキストなので、バウマンの思想を端的に知ることができる本だと言える。
「リキッド化」について少し説明したい。
国家や国民経済、コミュニティー、そして身体に至るまで、近代は「ソリッド(固体)」な枠組みを持っていた。しかし、グローバル化によって自由に移動する資本は国家の法治に縛られない権力を持つようになり、大規模な移民による人口移動は大量のディアスポラ(離散者)を生み、遺伝子技術によって身体もこれまでの形態をとどめないかもしれない。
バウマンは、そうした事態、すなわち社会生活のあらゆるソリッドなものが溶解し、しかも新たな固まりとなることはなく、どろどろと常に流動化していることを、人間性の危機と捉えている。本書は、リキッド化の危機を「文化」に焦点を絞って論じている。
ここで再び、本書を読む意味を示すためにイスラム国のことに触れたい。米国人ジャーナリストを処刑したとされる英国籍のエジプト系移民の男性はラッパーだった。
ユーチューブで彼を見つけたが、アメリカ風のラッパーの服装をし、「マリファナを買う金があったら親孝行しろ」「ロンドンの公営住宅は最悪だ。政府は何をしているんだ」と叫ぶ姿に驚いた。アメリカの大衆文化のスタイルを借りてイスラム的倫理を主張し、それがインターネットで配信され、本人はイスラム国でテロに手を染める……。
確認するまでもないが、イスラム国を目指したヨーロッパの若者たちは、貧困にあえいでいたとか、激しい排除に遭っていたということでは決してない。
移民の2世、3世として教育を受け、比較的豊かな生活を享受し、欧米のポップカルチャーを吸収していた、それなのに、というか、それだからこそヨーロッパ社会に疎外感を持ち、過激主義の誘惑にひかれていったことが、バウマンの文化論から理解できる。
バウマンが本書で何度となく繰り返すのは「多文化主義」への批判だ。イスラム系にせよ、アフリカ系にせよ、ヨーロッパの少数民族にせよ、リベラルな知識人が強調してきたのは「多文化主義」だ。
文化を友好的に共存させようとする、「政治的に正しく、根拠も証拠もいらない公理」になっている一見リベラルな概念こそが、人々を分断、対立させているのだと鋭く指摘しているのが、本書の重要な点だ。
「残念ながら、あなた方が陥っているその苦境から救い出してあげられない」と、バウマンは多文化主義を極めて単純に要約している。もちろんバウマンは、本来の意味での多文化の共存を否定しているのではない。
エスニック・マイノリティーが「ゲットー化」せず、多数派の人々と、バウマンの言葉を使えば「頻繁な往来や気楽な散歩ができる穏やかな平原」を守るには、空疎な「多文化主義」を唱えるだけではリキッド化する現代ではあまりにも無責任だと、知識人の態度を厳しく批判しているのだ。あのイスラム国のラッパーも「じゃあ、あんたたち何をしてくれたんだよ」と思っただろうことは、想像するに難くない。
相対的な経済的格差、多文化主義と言い訳しながら遠巻きにながめる無関心による排除、グローバル資本による絶え間なき消費への誘惑など、バウマンは、リキッド化する社会において多数派の「残念ながら」という心性がつくられるシステムを詳しく分析している。
社会理論としては、親から子に経済的資産だけではなく文化的な教養も受け継がれ階級が固定するというブルデューの「文化資本」論を超えて、高級文化もサブカルチャーもどろどろに溶け合い、グローバル企業が演出する終わりなき消費ゲームを「狩人」のように勝ち抜く、新しい文化的エリートの姿を描き出していることも注目に値する。
耳が痛い。振り返って日本で起きている民族差別、排外主義の高まりのなかで、「多様性と寛容が大切」と多文化主義をお題目にすることで、事足れりとしていなかっただろうか。
リキッド化した文化消費のなかでは、イスラム国と同様に、レイシズムのような単純で憎悪性が高く、間違った意味での「ソリッド」なものにひかれていく人々が再生産されていく。
リキッド化の概念はともすれば諦めの念を強めるかもしれない。しかし、バウマンは民主主義と近代的価値を、少なくとも私たちの「生活世界」のなかで取り戻す処方箋も提示してくれている。
先に引用した、本来の多文化の共存である「頻繁な往来や気楽な散歩ができる穏やかな平原」は、文化で言えば「芸術家と『公衆』の持続的な出会いを確保」することだという。その「出会い」のために「ローカルで『草の根』芸術や演劇、演奏活動を促進する」ことを公共が支援していくことだという。文化報道に携わる者としては、いくらかの勇気を与えられた。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください