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[書評]『裏山の奇人』

小松貴 著

中嶋 廣 編集者・トランスビュー

虫と愛しあう人  

 大きめのエンマコオロギを手に持ち、ヤブカラシの茂みで待ち伏せしていると、コガタスズメバチがやってきて著者の手に止まる。そうしてすばやくコオロギを咬み殺し、肉団子を作る。ハチは著者の周りを、常に顔をこちらに向けて旋回し、位置を覚えると、餌を持ち去る。

 コガタスズメバチは、一度見つけた餌はすべて手に入れないと気がすまないから、同じ餌場に再び三たびやってくる。こうすると、手に何も持ってなくても、スズメバチは著者を餌場と思い、手に止まるようになる。中には1週間、餌もないのに手に止まりに来たハチがいるという。なんて可愛いやつなんだ、とこのとき小学生の著者は思った。

『裏山の奇人—野にたゆたう博物学—』(フィールドの生物学14)(小松貴 著、東海大学出版部) 定価:本体2000円+税拡大『裏山の奇人――野にたゆたう博物学 (フィールドの生物学14)』(小松 貴 著、東海大学出版部) 定価:本体2000円+税

 こういう人が信州大学生物学科に入学し、大学の裏山で、多くの新種、希少種の虫を発見する。

 虫だけではない、なかなか顔を見せないニホンアマガエルとも、アカネズミとも、ムササビとも、ヤマネ(リスに似ている)とも、テンとも親しむ。

 彼らが姿を見せるのを待って、じっと目と目を見つめあう。すると気持ちが通じ合い、アカネズミは近くを自在に動き回り、テンは悠々と水を飲む。

 虫の話は多彩でどれも面白すぎて、例を選ぶことができない。

 しかし著者が好きなのは、虫だけではない。

 例えば北海道に帰省したときの、一面の雪に舞い降りたカラスの群れ。著者はカラスたちと仲良くなりたくて、茶色のコートを着て、帽子を目深にかぶり、マスクをしてワシに変装し、地上30センチほどの高さでヨチヨチ歩きをする。

 あるいは、ヒッチコックの『鳥』の気分を味わいたくて、カラスに見せかけた黒い布を手に、叫びながら走り回り、黒雲のような大群を呼びよせる。それを見て、なんて楽しいんだとほくそえむ。

 マレーシアのジャングルクルーズでは、実に多彩な、私など見たことも聞いたこともない多くの虫とつきあう。比喩ではなく、頁を繰る手をとめることができない。

 有頂天になった著者は、しかし日本でも流行りかけのデング熱にかかる。しかもそれが劇症型のデング出血熱に移行し、死にかける。でもそんなこと、なんでもない。ジャングルで見たハマダラカの写真が載っている。重度のマラリア汚染地帯で、刺されれば致命的だが、「翅の模様の美しさには息を飲んだ」と著者は言う。

 最後に出てくるハエの話が圧巻だ。ペルーのジャングルで、グンタイアリに追われて逃げ出すゴキブリを襲って卵を付着させるメバエの一種、スティロガステル。これは口絵にカラー写真が載っている。トンボのように細く長いスタイリッシュな胴体、鋭く伸びた口吻、虹色にうっすら輝く大きな複眼。これがハエなのか、と息を呑む美しさだ。

 著者が「精霊スティロガステル」と呼ぶこの奇跡のハエは、グンタイアリの群れの先頭から1~2メートル、上空50~60センチの空域にしかおらず、しかもあまりにすばやく飛翔するので、肉眼で捕らえることすら難しい。

 このスティロガステルの、著者自筆の復元図も載っているが、それは胸の大きな、足の長い、戦闘美少女の姿をしている。著者は、自分の「脳内では過剰に美化されているが、凡人にはただのハエにしか見えない」と言う。

 この目視することさえ困難な戦闘美少女バエを、なんと著者は自在に手なずける。驚くべき工夫により、スティロガステルは著者の手の動きにあわせて、華麗に舞ってみせるのである。ああ、なんて可愛いんだろうと、ついこちらも思ってしまう。

 本書は実にいろいろなことを考えさせる。もしフランツ・カフカが著者に会っていたら、『変身』はまったく違う作品になっていただろう。「ある朝、目覚めると、グレゴール・ザムザ・小松は巨大な虫に変身していた。強い歓喜が、彼の全身を突き上げた」。現代文学の方向は、まるで変わっていたに違いない。

 本書を含む「フィールドの生物学」シリーズには、昨年来読書界を席巻し、「いける本大賞」を受賞した『孤独なバッタが群れるとき――サバクトビバッタの相変異と大発生』(前野・ウルド・浩太郎 著)がある。また書名コンクールがあれば必ずやベスト3に入るであろう『右利きのヘビ仮説――追うヘビ、逃げるカタツムリの右と左の共進化』(細 将貴 著)がある。出版不況ですっかり希少種になったシリーズものの、これは驚くべき突然変異なのである。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

中嶋 廣

中嶋 廣(なかじま・ひろし) 編集者・トランスビュー

1953年生まれ。新卒で入社した筑摩書房はすぐに倒産。9年後、法蔵館へ移籍し、『季刊仏教』を編集しつつ、『上山春平』著作集や養老孟司『カミとヒトの解剖学』などを編集。2001年、トランスビューを設立し、池田晶子『14歳からの哲学』、森岡正博『無痛文明論』、島田裕巳『オウム』、小島毅『父が子に語る日本史』、チョムスキー『マニュファクチャリング・コンセント』などを手がける。