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[17]第4章「舞い降りたバリケード(4)」

教師だった父との衝突

菊地史

 それでも私は、闘争をもう一度、起こしたいと思った。71年春の卒業まで、仲間といっしょに生徒会に介入し、街頭デモに出かけ、ビラを刷り、集会を呼びかけ、しかし、型どおりに「一般生徒」から浮き上がって、消耗を重ねていった。

 と同時に、父親との衝突が激しくなった。ほとんどの政治的高校生にとって、「家族帝国主義」こそ、もっともやっかいな敵だったが、わが家もその例外ではなかった。それに悪いことに、父は教師だった。しかも、ふつうの教師ではなく、「教育相談」や「生徒理解」といったものの専門家でもあるようだった。父の態度から察するに、私の行動は非行的な「反抗」と映っているようだった。私は、いまや父の鬼っ子になってしまっていた。

 最初は父も、私の「目覚め」に寛容だった。教育や社会に対する疑義を言い立てる息子に向かって、「目の見えない人たちの目を開いていくのが一番大事なことだ」と応じていたが、そのうち、受験勉強など忘れたように飛び回っている息子を見て堪忍袋の緒が切れた。

 ある日、なにかささいなことから、我々は激突し、棄て台詞を吐き合った。生まれて初めてのことだった。

 父は、竹を割ったような、シンプルで分かりやすい人間ではなかった

 教師という役割を熱心に演じていたが、本当はその仕事が好きではないと言ったりした。合理的な思考と批評的な眼差しを持っていたが、どこかで、泥臭い情緒の世界に惹かれているようなところもあった。読売巨人軍をかなり嫌っていたが、かといって、ジャイアンツ以外の特定のチームをひいきにしているわけでもなかった。

 つまり、分かりにくい人間だった。

 その分かりにくさは、両義的であると言い換えてもいい。

 ○○でありながら、○○でもあるという両義性を、子どもはすぐに理解できない。それは実のところ、大多数の大人が身につけているものだが、親と子という距離のない関係では、却って解しにくいところがある。

 だから、私は、父が教師と父親の間を行ったり来たりするもの言いをずるいと感じた。

 父は教師の口調で、もっと広い視野を持てと説得したが、他方では、世の親たちとまったく同様に、軌道からドロップアウトする危険を強調した。つまり、揺さぶり攻撃である。

 投げつけ合った言葉は、もうほとんど記憶から消えてしまったが、ひとつだけ、自分の発した言葉が脳裏に貼りついている。

 「それは、たんなる処世術じゃないか!」

 私は、父からこの世界の原理のようなものを聞きたかったのに、教師と父親の立場を使い分けながら、なだめたり、脅したりする言葉は、いやに常識的な損得話のようだった。

 「処世術」と息子に言われたとき、父は寂しそうな顔をして黙っていた。あるいは、そうだ、お前の言う通り、俺は今、処世のむつかしさを語ろうとしているんだ、と口に出したのかもしれない。返ってきた言葉は覚えていない。

 でも、その一瞬の鼻白んだような様子は、おそらく50歳の父の半生に、いくつかの「処世」の分岐点があったことを伝えていたにちがいない。

 しかし、その時の私には、その表情を読み取る余裕がなかった。言い合いは尻切れトンボに終わり、その後、かなり長い時間、我々の間には重いわだかまりが残った。

 父――菊地四朗は、当時、東京都北区立北中学校の教頭だった。はじめて就いた管理職だった。北中の前は、板橋区立志村第一中学校で教えていた。国語と社会の教員免状を持っていたが、教科指導の巧拙は聞いたことがない。父が教育界で多少名前を知られるようになったのは、この志村一中時代に、校長の須田重雄に促されて、学校経営――中でも特別教育活動や教育相談――について、研究や執筆の機会を得るようになってからだ。

 ちなみに、「特別教育活動(特活)」とは、生徒会活動、クラブ活動、学級活動、学年集会を含む学習指導の一分野で、教科指導や道徳指導などと同列にある。もうひとつの「教育相談」とは、学習指導・進路指導と並ぶ生活指導の中の、さらに細分化された一分野で、生徒を対象とするカウンセリングである。

 これらの学校機能は、1958年に全面改訂された学習指導要領によって定式化され、国の基準が定められたが、各教科の指導法に比べて、教育現場における計画や実行のノウハウに乏しかった。

 須田は、この新しい領域に強い関心を持って取り組み、年下の父にも協力を求めたのだろう。父は親分肌の須田の要請を意気に感じ、その後、密接な協力関係を続ける。二人の共編になる『新しい教育相談の実践』(1967)は、その集大成と言っていい著作である。

 父たちは、この中で次のように書いている。

 “心の中に相談室を持とう”
 当時、私たち志村一中の教師は、このことばをかかげることによって、教育を見失うことのない教師への道を踏み出した。
 私たちは、教師が教科の指導を全うすることだけで教育責任を遂行しうるとは考えなかった。たとえそれが教科担任制であるとしても、教科のエキスパートが教師のすべてではないという現実に直面したのである。教師は、教科についてのエキスパートであると同時に、人格の成長を助け、人格の成長をはばむもろもろの障害を除去し、解消するよき相談者としての働きを遂行しなければならない「人間」として、子どもたちの前に立たねばならないと判断したのである。(編著者はしがき)

 須田は、北区教育研究所、葛飾区教育委員会を経て志村一中の校長に就き、父は江東区砂町中学から志村一中へ転任してきた。二人がどのように出会い、意気投合したのかは分からない。

 この後述べるように、父のそれまでの生き方は須田の生き方とはかなり異質だから、ある種の「化学反応」があったのだろうと推測するのみである。ただし、戦後中等教育の変遷を間近に見てきた壮年の男たちが、新しいことに取りかかったようすは、上の引用からもうかがえる。父は、須田や志村一中の教師たちと語り合う中で、それまでの自分の生き方とは異なる、新しい道を再発見したのである。

父はどこからやって来たか

 父は、1919年(大正8年)、菊地安二と芳野の次男として台北市で生まれた。安二は、台湾総督府に務める役人だった。

 最初の誕生日を迎える頃、安二の転勤で上京し、牛込区神楽坂上に住んだ。関東大震災に遭遇した一家は、四谷塩町に移り、父は新設の四谷第六小学校に入学したが、4年生の時に再び転勤で台湾へ戻った。赴任地は台南だった。

 台南の南門小学校では、少年野球チームに入ってスポーツの面白さを知った。台北一中の受験に失敗し、1年間の「浪人生活」を経て晴れて入学すると、勇躍、野球部に入った。3年生で主将を務めたが、父・安二に説得されて退部。それでも、台北高校(文乙)へ進学すると野球を再開、インターハイで本土へ遠征した。

 高校入学後は、野球の他に美術に関心が向いた。美術大学へ行きたいと望むも、安二の猛反対に遭って断念。しかし、諦めきれず、東京大学文学部美学美術史科へ進んだ。

 父の人生が大きく転回したのは、この後だ。 ・・・ログインして読む
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筆者

菊地史

菊地史(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。