メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

朝日新聞の誤報道問題――謝罪する側、批判する側の「作法」とは?

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

 書店店頭は、時代の鏡である。書棚はそのパノラマである。書店の志向が、書店員の意志がその風景をつくっているわけではない。売れる本を仕入れて並べる、当たり前の日常を続けると、知らず知らずのうちに今の社会を映してしまうのだ。

 ここ数年、「嫌韓」だ「嫌中」だと、隣国を敵視し、貶め、憎悪を煽るような書籍が書棚を席巻してきた。

 そして今雑誌売場では、朝日新聞を糾弾する文字が躍っている。「保守」系の『正論』、『Voice』、『WiLL』はもちろんのこと、『新潮45』や『文藝春秋』などで、「朝日批判」特集の記事タイトルが、表紙の大半を占めている。インターネット上の「炎上」と呼ばれる状況が書店に具現したかのような様である。

 8月5、6日の朝日新聞の特集記事が火種であり、9月11日の朝日新聞社木村伊量社長の謝罪会見が、油を注いだ。

 特集記事は、1982年9月2日に掲載された吉田清治氏の「慰安婦狩り」証言が虚偽であり、それに基づいて書かれたその後の16本の記事も不適切なものであったことを認めたものであり、社長の会見は、東日本大震災に伴う福島第一原発事故の際、部下が吉田所長の命令を無視して避難した、と報道したことが誤りであったことを謝罪するものであった。

 謝罪に際しては、守るべき公準がある。ぼくたち小売業の人間は、お客様のクレーム対応を繰り返すことによって、それを身体で覚える。

 まず、自分たちに非があったことを認めるならば、非の内容と範囲を明確に認識し、その点に集中して徹底的に詫びることである。自分が非を認めていない範囲に言及すれば、知らず知らずのうちに自らを正当化しようとする言葉が出てしまう。更には、自らが非と認めている部分までも糊塗しようとしてしまう。

 確かに、吉田証言が偽りであったこと(1)は「従軍慰安婦」がいたことの証拠は無いということ(2)と同値ではないし、ましてや「慰安婦」がいたことを否定すること(3)にはならない。(1)から(2)や(3)を導き出すことは、完全な誤謬推理である。それでも、(1)について誤った報道をしたことを謝罪している場で、(2)や(3)の否定を持ち出してはいけないのである。

 一方、批判する側も、謝罪する側と同じく、批判の対象を明確にすること、むやみに拡大しないことが作法である。

 「吉田証言」や福島第一原発事故についての誤報を十分なウラを取らずに流してしまった朝日新聞の軽率さとチェック体制の甘さを叱り、是正のためのアドバイスを与えるのであれば、それは建設的な批判と言える。

 だが、多くの記事や言葉に溢れているのは、罵倒、誹謗、怨嗟の言葉であり、朝日新聞の存在を否定し、葬り去ろうという執念さえ感じられる。

 雑誌売場に林立する表紙たちの風景は、「集団いじめ」の様相を呈している。「いじめ」はたいてい、「だって〇〇(被害者)が間違ったことをするのだもの」から始まる。そして、「間違ったこと」の譴責が○○の人格の批判、さらには存在そのものの否定へとエスカレートしていくとき、それは「いじめ」となる。

「コップの中の嵐」?

 ぼくが目を通した限り、今雑誌売場に林立している朝日新聞批判の雑誌記事、寄稿、対談の多くは、誤報道そのものから、朝日新聞社の取材姿勢や歴史観に批判の対象が移っている。それは、先にも述べたとおり、論理的には誤謬推理である。

 批判の矛先が「朝日新聞を支えてきた戦後左翼、日教組」に及ぶものも散見され、韓国や中国、そしてアメリカの姿勢を非難するものも少なくない。果ては、“国連脱退もやむなし”という「勇ましい」主張も見られる。それらは、誤報道批判をすでに大きく逸脱している。

 これら「慰安婦」にまつわるジャパンバッシングのすべてを朝日新聞の誤報道の責任に帰する論調は、実はむしろ、朝日新聞を貶めるよりも、朝日新聞という存在を不当に、過大に評価してしまっていると知るべきだ。

 歴史的事実は、現場に立ち合った人間の証言がもとになって構成されるほか無い。その証言には、真実もあれば誤認もあれば意図的な偽証もあるだろう。それを検証するのが、学問やジャーナリズムの仕事ではないのか。

 そして、一つの誤報道に、30年以上の長きにわたって日本の歴史認識を代表させてしまったことをこそ、朝日も、朝日を批判する側も、双方が猛省すべきではないのだろうか。

 だがひょっとしたら…、という思いが頭を過ぎった。

 ひょっとしたら、こんなことを書くぼくこそ、針小棒大な議論をしてしまっているのかもしれない。そもそも、もはや誰も、書店の売場の風景など気にかけていないかもしれない。だとしたら、朝日新聞の二つの誤報道に端を発した憎悪と排斥の連鎖も、「コップの中の嵐」に過ぎない。それなら、安心……

 ではない! そうだとしたら、そのことこそ、われわれにとって、最大の問題なのだ。

 互いに相手を蹴落とそうとする不毛でみっともない内輪もめは、ますます人々を活字メディアから遠ざける。そのことを、少なくとも活字を生業とする者は、肝に銘じるべきなのだ。

 言わずもがなだが、「似たような誤りは他者にもあった」という言い訳は、最悪である。それは、活字メディアが拠って立つ基盤を、自ら切り崩すものにほかならない。