2014年10月14日
ロベルト・ロッセリーニの『ドイツ零年』(47)は、『大人は判ってくれない』に大きな影響をあたえた子ども映画だが、この<イタリア・ネオレアリズモ>の傑作の主人公、エドムント少年同様、アントワーヌ/レオーも、しばしば街を歩き回り走り回る。
つまりアントワーヌ/レオーは、画面にさまざまな<動線>を描くのだが、先に少し触れたように、そうした彼の軽いフットワークも、『大人は判ってくれない』の<軽やかな哀しさ>という主調音にとって不可欠なものである。
『ドイツ零年』については、2014/3/25の本欄「『ネオレアリズモ』の古典、ロッセリーニの『ドイツ零年』が東京・渋谷で上映」を参照していただきたいが、そこでも引用したように、トリュフォーはこう言っている――「『新学期 操行ゼロ』のジャン・ヴィゴ[後述]をのぞけば、子どもの世界をセンチメンタルなやさしさや涙なしに描き得た映画作家はロッセリーニだけである。わたしの『大人は判ってくれない』はロッセリーニの『ドイツ零年』に負うところが大きい」、と。
<運動>という点で注目すべきは、とりわけ、アントワーヌが親友ルネといっしょに足早に歩き、小走りに走るパリの街路のシーンだ。
それらのシーンは映画に軽やかな<運動>を導入し、空間を移動するという行為が、アントワーヌにとって心地よく幸福なものであることを鮮やかに印象づける(説明ではなく、文字どおりアクションとして)。
ちなみに、アントワーヌが独り広場をさまよい、噴水に張った氷に手を触れるところは、明らかに『ドイツ零年』への目くばせだ。
そしてまた、それらの鮮烈なパリの街頭撮影/ロケーションが――ゴダールの『勝手にしやがれ』やシャブロルの『いとこ同志』(59)のそれのように――、NVの“署名”のひとつであることは言うまでもない(『大人は判ってくれない』のコントラストを利かせたモノクロの超絶撮影は、報道カメラマン出身の名手アンリ・ドカによる)。
いいかえれば、NVの監督たちの最大のねらいの一つは、セットではない現実のパリをカメラで記録することだった(もっとも前記シャブロルの『いとこ同志』は、かなりの部分がセットで撮られたが)。
さて、繰り返すが、アントワーヌにとってパリの街を軽やかに移動することは、かりそめの解放感をもたらす心地よい行為である(ラストでの少年鑑別所から脱走し、海に向かいゆるやかに走ることと同様に)。当然ながら、アントワーヌにとってパリの街や海岸沿いの野原は、束の間の自由をあたえてくれる幸福な空間だ。
したがってそれらの空間は、彼から<運動>を奪う閉鎖的で居心地の悪いアパルトマン・学校の教室・鑑別所とは対照的な場所だといえる(アントワーヌにとって、閉ざされてはいるが例外的に幸福なスペースは、もちろん映画館だ。ただしトリュフォー自身は、学校をさぼって映画館に入るたびに罪の意識を感じていた、と語っている<『トリュフォーによるトリュフォー』、ドミニク・ラブールダン編・山田宏一・訳、リブロポート、1994>。
思うにこれは、多くの映画ファンが子ども時代に経験した感情ではないか。私自身も小学生のとき
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