2014年11月13日
カジノを含む統合型リゾート(IR)施設を解禁するための法案の成立が遅れている。
今臨時国会での成立は絶望的だし、また新年2015年1月から始まる通常国会での成立さえ、危ぶまれているそうだ(ロイター。2014年11月5日)。
いわゆる先進国(0ECD加盟国)のなかで、ゲーム賭博が合法化されていないのは、アイルランドと日本のみ。
ただしノルウエイには、いかなる種類のゲーム賭博も合法だが、それを商業施設で開帳してはならない、とするちょっと特殊な禁止法がある。
なぜアイルランドと日本では、ゲーム賭博が非合法とされているのか?
アイルランドの場合は、競馬産業保護のため、という国民的合意が成立している。旧宗主国の英国を、高額賞金の懸った競馬レースで打ち負かすのだ。アイルランド国民が持つ植民地時代の歴史的怨念が、カジノを合法化することを妨げているのかもしれないな。
現在、国連加盟約200か国のうち130か国以上で、ゲーム賭博は合法化されている。ところが、日本では、ゲーム賭博の場すなわちカジノは、刑法で厳しく取り締まられる。
再び、なぜか?
日本国民はバカだからか。
昨今の政治的経済的、そして社会的状況を鑑みれば、それもあながち否定できない説だけれど(笑)。
いやいやわたしは、そう思わない。ええ、思いませんとも。
カジノを合法化している約130か国の国民たちと同程度には、日本国には頭のいい人も悪い人もいる、と考える。
であるなら、日本でカジノが合法化されてこなかったのは、他になんらかの理由があったからではなかろうか?
当稿は、カジノとは何か、それを禁止する、あるいは解禁するとはどういうことなのか、いや、そもそも賭博とは何か、をきわめて私的・体験的に検証しようとする試みである。
資本主義の本質はギャンブルであるとわたしは考える。
そもそも、資本主義制度の根幹部である証券取引所の成立は、17世紀のロンドンにあった非合法の賭場を起源としているそうだ。
わたしの理解によれば、ギャンブルすなわち賭博とは、「不可測な未来を可測化しようとする試み」である。
資本主義に付随した脂肪や贅肉をすべてさっぱり削ぎ落とし、そのエッセンスだけをぎゅっと凝縮し濃厚に濃密に裸形の姿にさせたのが、どうやら日本でもそのうちに公認されるかもしれないカジノと呼ばれる場だ。
「社交の場」などと勘違いしている方たちも一部にはいらっしゃるようだが、簡潔に直截に申し上げれば、カジノでおこなわれているのは、カネの殺し合いである。
わたしの言葉では、「暴力を介在させない合意の略奪闘争」の場となる。
暴力を介在させないながらも、略奪の闘争であることに変わりはない。
剥き出しとなった人間の欲と欲とがぶつかり合って、火花を散らす。
刺さなければ、刺される。
殺さなければ、殺される。
勝てば、中空に舞い上がる。
勝利が連続すると、可測化できないはずの未来を可測してしまったのであるから、神をも凌駕したかのような全能感を味わえる。現世に突如出現した極楽だ。
一方、負ければ、堕(お)ちる。無明の闇を絶望と共に彷徨(さまよ)う。
敗北が続けば、地獄の釜でたっぷりと茹でられる。
そういったジゴクラク(地獄と極楽が背中合わせに存在する状態を意味するわたしの造語)を生業の場とし、もう四十余年。
いろいろな人たちを観察してきた。
残念ながら、多くの人たちは、刀折れ矢尽きて、「合意の略奪闘争」の場から消えていった。死屍累々(ししるいるい)。嫌になるほど死屍累々。
破産や逃散、家族離散はもとより、塀の中でしゃがんでいる人(たとえば、井川意高(もとたか)・大王製紙前会長など)、自殺した人(これは多数)、殺されちゃった人(たとえば、川口湖畔の通称バカラ御殿で全身十数箇所を、刺され抉(えぐ)られちょん切られた惨殺体となって発見された「サムライ・カシワギ」こと柏木昭男など。拙著『越境者たち』集英社文庫参照)まで居る。
ところがどっこい、無数に散らかる屍(しかばね)に囲まれながら、まだしぶとく生き残っている奴らも、きわめて少数とはいえまた居るのである。
その違いは、どこからくるのか。
他人(ひと)のことは、わからない。でもわたしが、わたしの個的体験を語るのは、許されるだろう。
カジノでおこなわれるのは、ゲーム賭博だ。ギャンブルなのだから、勝ったり負けたりするのは当然である。もしあなたがゲーム賭博で勝ち続けているのなら、恐悦至極。わたしが口を差し挟む余地はあるまい。
博奕(ばくち)の世界で生き残るには、負けないことだ。
これにつきる。
笑わないでいただきたい。わたしは大真面目なのである。
しかし、人は負ける。いつかどこかで必ず負ける。どんな成功者であろうとも、すべての人間はある時点では敗者(ルーザー)だった。
わたしの理解で、博奕における真実はただひとつ。
――勝てば幸運、負ければ実力。
これだけだ。
したがって博奕では負けるのが必定。
ただし、負けを恐れてはならない。どう負けるか、が博奕ではきわめて重要なのである。
その負けをいかにして軽傷のまま「打たれ越し」生き残るか。
ひとつの敗北を契機とし、一直線に滅亡に向け崩落してはならない。
打たれ、打たれ続けるのを、ミニマム・ベットで耐え忍ぶ。これが、「打たれ越し」だ。
じっと我慢していれば、チャンスは必ず訪れる。
忍苦の末に訪れた一縷の光明を手掛かりとして、一本の勝負手に勝利すれば、それで博奕の帳尻は合う。多分、人生の辻褄も合う。
ところがほとんどの人たちは、「暴力を介在させない合意の略奪闘争」の場たるカジノで、この我慢ができない。
普段は、嫌な職場の上司や、不細工な夫・妻あるいはアホな息子・娘たちをじっと我慢しているくせに。
なぜ我慢できないかについて、いろいろな理由が考えられるのだが、それは本論から外れるので、ひとまず措(お)いておこう。
勝っている時は、誰にだってそれなりの芸を見せられる。人間の器量は、負けている時にこそ示される。
――転がるのはよい。立ち上がらないのがいけない。
負け方を知る。受け身を学ぶ。徹底的に学習する。 (つづく)
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