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[書評]『啓蒙思想2.0』

ジョセフ・ヒース 著 栗原百代 訳

東海亮樹 共同通信記者

「ウンコな議論」への厳しい戦い  

 2010年にワシントンで「正気を取り戻す」と名付けられた集会が開かれ、なんと25万人もが参加したという。貧困や反戦などではなく、「理性を回復しよう」という極めて抽象的なテーマでこれほどの人が集まったのは、著者によると「フランス革命以来はじめてのこと」だそうだ。

 風刺ニュース番組のキャスターが呼びかけた集会で、洒落と言えば洒落だが、大まじめと言えば大まじめだったそうだ。それほど多くの人が、アメリカの政治や社会が「イカれて」しまったことに危機感を感じているらしい。

『啓蒙思想2.0――政治・経済・生活を正気に戻すために』(ジョセフ・ヒース 著 栗原百代 訳 NTT出版) 定価:本体3000円+税拡大『啓蒙思想2.0――政治・経済・生活を正気に戻すために』(ジョセフ・ヒース 著 栗原百代 訳 NTT出版) 定価:本体3000円+税
 本書で紹介されているアメリカの政治家やメディア人のイカれた言説を見ると、たしかにクレージーだと思わざるを得ない。

 大統領共和党予備選挙に立候補したリック・サントラムは安楽死に反対するために「安楽死を認めているオランダの高齢者は『私を安楽死させるな』というブレスレットをしている。病院でみんな安楽死を強要されている」と主張した。もちろん嘘だ。

 ティーパーティ運動の顔で副大統領候補だったサラ・ペイリンは「オバマの社会主義政策でアメリカは失敗した」と言ったすぐ後に「経済はウォール街はもうかっているけど失業者はかわいそうね」と付け加えたそうだ。社会主義のおかげで金融がもうかる?……意味不明だ。

 テキサス州知事のリック・ベリーに至っては、猛暑の対策で「雨乞いの日」を公式に宣言した。たしか今は21世紀のはずだが……。

 アメリカはもともとキリスト教原理主義や極端な銃マニアなどをかばう傾向はあったのだが、近年ますます非合理的な言説が力を増しているという。

 著者は、ユルゲン・ハーバーマスのもとで学んだカナダの哲学者。本書でタガが外れたようなアメリカの政治・社会文化のなかで、果たして理性を取り戻すことは可能なのかを探っている。『啓蒙思想2.0』というタイトルは、インターネットの「ウェブ2.0」から取ったものだが、理性のバージョンアップは可能かという試論だ。

 著者は、最新の認知科学の成果をひもときながら、そもそも人間は理性的になれるのだろうかということから考察していく。アメリカの心理学では近年、人間の脳にとっては理性というのは不自然なもので、「直感」あるいは「ヒューリスティック(経験則)」の方が優位であって、理性は欺瞞なのかもしれないという説が隆盛になっているという。

 たしかに認知科学によれば、理性はかなり苦戦を強いられている。理性を働かせるには脳に大変な労力がかかり、しかも処理速度は遅い。しかし、「努力」をすれば人間は理性的になることはできる。

 さらに旧来の「啓蒙思想1.0」は個人(特にインテリ)の能力によりかかりすぎていたが、ウェブ2.0がネットを「巨大な図書館」のように固定的に設計されたことから多くの人々が「集団行動」によって「熟慮」することへの可能性を開いたように、啓蒙思想も2.0にすることができるかもしれないと訴えている。

 しかし、イカれた議論の増殖は加速している。

 有史以来、政治家は嘘つきだが、嘘がさらに手に負えないものになったのはそう昔のことではない。

 ニクソンは嘘つきだったが、嘘がばれるとやましげな表情をしたという。

 ところが、レーガンからやましさがなくなってしまったそうだ。レーガンは「シカゴの福祉の女王」という作り話を好んでした。偽名や虚偽申告で社会保障費を15万ドルもだまし取ったという女性がいたという話だが、嘘だと明らかになってもレーガンは平気な顔で同じ話を続けた。それがイカれた言説の源流らしい。

 嘘だと分かっていて嘘をつくのは単なる嘘なのだが、嘘をついても嘘だと自覚した様子もなく真実かのように虚言を吐き続けることを、日本語にすると品がないが「ウンコ(bullshit)な議論」と呼ぶそうだ。

 単なる嘘より、「ウンコな議論」はタフなのが困った点だ。それは人々の感情に訴えかけ、くり返しを続けることで人々は「そうなのかな」と刷り込まれてしまう。論理的整合性や根拠に人々は実はあまり注意を払わないようなのだ。

 すべては社会主義やユダヤの陰謀だとか、オバマはケニア人だとか、地球温暖化は嘘っぱちだとかといった「ウンコな議論」について著者は、人は自分が見たいように世界を見るという「バイアス」や、グローバル時代の情報過多とスピード化などから、人々が労力をかけて理性を働かせることが難しくなっている状況を示す。

 それは心が有害なウイルスに冒されているようだという。著者は心理学、社会学、経済学、哲学を動員して人々がバカな言説に騙されていく仕組みを解明していくのだが、一方で古典的な政治的詐術が今も猛威をふるっていることにも行き当たる。

 ナチスの宣伝相だったゲッペルスの「宣伝は必ず基本的に単純で反復的でなければならない。(世論に影響を与えることに成功するのは)問題を最も単純な言葉に変え、その単純な形でずっとくり返すことのできる勇気ある人物だけである」という戦術だ。

 ゲッペルスの役割は今も選挙参謀や広告代理店がしっかり担っているし、ティーパーティ運動をはじめ草の根でも非合理的な「反復」が行われている。

 400ページに及ぶ「理性」の「ウンコな議論」に対する厳しい戦いについての考察を読み終わって、決して明るい気持ちにはならないだろう。

 しかし著者の言うように、理性の劣勢をどうにかするためには、状況の複雑さを引き受け、大変な労力をかけなければならないという自覚だけは持てるかもしれない。著者は「理解」と「熟慮」と「集団行動」に基づく「スロー・ポリティック宣言」を最後に記している。一読に値する内容だと思う。

 アメリカ人が特にイカれているわけではない。「反復」ということで言えば、「在日韓国・朝鮮人は特権がある」などという「ウンコな議論」がくり返されるうちに、街場どころかメディアの一部でまで「そうなのかな」という声が出るような日本も、対岸の火事ではないことは付け加えておきたい。正気を取り戻そう。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

東海亮樹

東海亮樹(とうかい・りょうじゅ) 共同通信記者

1968年生まれ。慶應義塾大経済学部卒。共同通信に入社し、宇都宮支局、広島支局、大阪社会部を経て文化部。文化部では論壇、書評、食文化などを担当。地元の東京・深川の地域フリーペーパー「かわら版 深川福々」編集長、ブックカフェ「そら庵」副代表、地元ネーム「深川亭ポレポレ」。ほかに国際都市・錦糸町案内人(未公認)など。「本は栄養、映画は滋養、まちは涵養」が座右の銘。