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フランソワ・トリュフォー特集が到来!(12)

『恋愛日記』における“孤独な女狂い”のユニークな魅力

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 ずば抜けた出来ばえなのに公開当時ヒットしなかった映画は、時が経つとしばしば「呪われた傑作」と呼ばれるようになる。孤独で偏執的な女たらしの人生を描いた『恋愛日記』(1977)も、まさにそうした「呪われた傑作」だ(すでに言ったように、私は本作と『柔らかい肌』とをトリュフォーの“呪われた二大傑作"と呼びたい)。

来日したフランソワ・トリュフォー監督=1963年、撮影・野口久光来日したフランソワ・トリュフォー監督=1963年、撮影・野口久光
 山田宏一氏は前掲『フランソワ・トリュフォー映画読本』で、主演のシャルル・デネルが「あまり感じのいい俳優ではない」ので本作は受けなかったのでは、と推測しているが、たしかにそれはあったと思う。

 40がらみのデネルは二枚目とはほど遠い容貌で、鉤鼻(かぎばな)が目立ち、顎(あご)はがっちりしていて、太い眉毛の下の大きな目が不安げに暗く光っている。お世辞にも色男とはいえぬ陰気な顔だ(私自身はシャルル・デネルを稀有な役者だと思うが、トリュフォーも惚れ込んだこの怪優の魅力については後述)。

 しかも主人公のベルトラン/シャルル・デネルは、次から次へと女を漁る誘惑者である(最初に予定されていた本作のタイトルは「女狂い」)。

 女の脚の魅力にとりつかれたベルトランは、美脚の女を見つけては熱心に言い寄り、かなりの“成功率"で彼女らと情交するのだ。

 そうした主人公の人物像や言動も、この映画が公開当時の一般観客、とりわけ女性観客に不人気であった理由のひとつだと思われる。

 しかしながら、ベルトラン/デネルはよくいるような、うぬぼれ屋で愛想のいいドンファン=色事師とはまったく違う(以下ネタバレあり)。

――南仏モンペリエの墓地で、ベルトラン/シャルル・デネルの葬儀がおこなわれている。奇妙なことに参列者は女ばかり。タイプはさまざまだが、脚が美しいという点で彼女らは共通していた。

 参列者の一人である女性編集者、ジュヌヴィエーヴ(ブリジット・フォッセー)は、葬儀の場からやや離れた場所に立ち、ありし日のベルトランの人生を回想していくが、『恋愛日記』の物語を開始し締めくくるのは――つまり物語を冒頭とラストで<枠取る>のは――、ジュヌヴィエーヴのナレーション/語りの声だが、本作の卓越した<声の演出>についても追って述べる。

 そして、生前のベルトランが自らの女性遍歴について自伝的小説を書く姿も、本作では彼の漁色とともに大きな比重で描かれる。

 その点で本作は、すぐれてトリュフォー的な<書物>と<女>の映画である。したがって、編集者(=本の作り手)であるジュヌヴィエーヴはキーパーソンの一人だ。しかも彼女は終盤でベルトランと懇(ねんご)ろになるのだから、「彼女の仕事そのものが恋愛を取りこんでいる」(インスドーフ前掲書)わけだ。

……流体力学研究所の勤勉な所員ベルトランは、仕事が終わると同僚との付き合いは一切せず、夜の街に美脚の女を漁りにでかけるが、そのさまは文字どおり命がけといった感じの奮闘ぶりで、彼は必死に知恵を絞り女たちに言い寄る(滑稽なほど手の込んだやり方で懸命に女を誘惑する彼の姿には、笑いが喉につかえるような可笑しささえ漂うが、したがって本作もある種の“コメディー・ドラマチック"だ)。

 ベルトランが関係を持つのは、

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