2014年12月12日
「井川のアホぼん」こと大王製紙前会長の話に戻る。
2013年、喜連川社会復帰センターに収監されていた井川意高は、懺悔録『熔ける――大王製紙前会長 井川意高の懺悔録』(双葉社)を上梓した。
なぜなら、カジノのシステムに関し、事実と異なる記述を散見したからである。
ジャンケット業者・小林愛季の証言を信じるとしたなら、そしてそれを疑う理由はまったくないのだが、「井川のアホぼん」は明らかに、「病的賭博依存(=強迫的賭博あるいはPathological Gambling)」だった、とわたしは考える。
10億円勝っても、打ち止めない。
負け切るまで、打ち続ける。
いや、オケラとなっても、ハウスやジャンケット業者に信用貸しをしてもらい、染みひとつないグリーンの羅紗(ラシャ)が張られたテーブルでバカラのカードを引いた。
バカラは、丁半博奕である。
プレイヤーかバンカーか、勝敗確率はほぼ50%。
どちらの目が起きるのか、わかりゃしない。
博奕(ばくち)に関する定義は無数にあるのだが、わたしが採用するひとつは、前述したごとく、
――不可測の未来を可測化しようとする試み。
である。
それゆえ、大賭金(おおだま)を張った勝負手で勝利すると、頭の中に「悪い汁」が滲(にじ)み出す。
これは大脳生理学的にも証明されているそうだ。
ドーパミン、ノルアドレナリン、ついでだからエンドルフィンまで出てきて、乱痴気騒ぎを起こし、中脳周縁系を汚す。
「快感サーキット」が全開となる。フル・スロットルだ。
不可測のはずの未来を可測した。神をも凌駕したのである。
大賭金での連続勝利が起これば、偽りの全能感を抱く。
わたしの言葉では、
――感情などが入り込む余地のない、まっさらな快楽。
を知る。
脳内が「快楽物質」でずぶ濡れになった状態だ。
脳ミソが痺れる。
こういう体験をしたのちは、博奕を打ち終えハコ(=カジノの建物)を出ても、身体がまだ浮遊している。
脚が地に着かない。
わたしは、そういう体験を実際にした。
もっともその時は、たまたま巨大な犬のうんこを踏んでいた。
脚が地に着いていなかったはずである。
すんません。真面目に書きます。
おそらく大王製紙前会長が打ったのは、なんのために戦っているのか、という理念も目的も忘れ去り、ただ戦っているという現実のみが重要となってしまった種類の博奕だったのだろう、と妄想する。
あるいは、エドムンド・バーグラーが指摘した、
――負けることを前提とした賭博、ないしは負けたいと希望する賭博。
であり(E.Berglar“The Psychology of Gambling")、もしかするとフロイトの分析にある、
――自己処罰としての賭博。
だったのかもしれない。
ここいらへんは、後世のため、是非ぜひ喜連川社会復帰センターを出所した「井川のアホぼん」が自分で書き残していただきたい、とわたしは希望する。
「依存」の問題は難しい。
「依存」は、意志薄弱・性格未熟といった本人の資質によるものと永い間されてきたのだが、現在では「精神疾患」の一分野として正しく認知されている。
賭博に関するそれは1977年にWHO(世界保健機関)が「依存症」のひとつとして分類した。
一般論としてではなくて、経験論的におそらくわたしは「依存」に関し極めて少数派に属する考え方をもつ。
「すべての善(よ)きこと」には「依存」性がある(笑)。
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