赤坂英人(あかさか・ひでと) 美術評論家、ライター
1953年、北海道生まれ。早稲田大学卒業。『朝日ジャーナル』編集部勤務を経てフリーライターとして独立。新聞、雑誌に現代美術、現代写真を中心にして、カルチャーに関する記事を執筆。監督映像作品に『森山大道 in Paris』、企画・編集書に『昼の学校 夜の学校』(森山大道著、平凡社) 、『昼の学校 夜の学校+(プラス)』(森山大道著、平凡社ライブラリー)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
待ちに待ったその本が復刊した。書店に並んだ本には「名著復刊 追悼 赤瀬川原平」と印刷された帯が巻かれていた。
赤瀬川が前衛美術家としてスタートした1960年代前半の状況を、当事者である彼自身が書いた『反芸術アンパン』(ちくま文庫)である。
文庫の表紙写真には第13回読売アンデパンダンに出品された赤瀬川のゴムと真空管などでできた肉感的な作品『ヴァギナのシーツ』と『潜行中のラストシーン』が写っていた。また高松次郎、中西夏之らと結成した「ハイレッド・センター」の活動を記録した赤瀬川の『東京ミキサー計画――ハイレッド・センター直接行動の記録』も同文庫で復刊された。
赤瀬川原平『東京ミキサー計画――ハイレッド・センター直接行動の記録』(ちくま文庫)
店頭に並んだばかりの文庫のページをめくりながら、私は感動した。とくに『反芸術アンパン』は約20年前に文庫化されたが、じきに絶版状態となり、長いあいだ読みたくても読めなかった文庫本である。
『反芸術アンパン』の原著は『いまやアクションあるのみ! <読売アンデパンダン>という現象』(筑摩書房、1985年刊行)。そこには毎年1回、上野の美術館で開催された、伝説的な無審査の展覧会である「読売アンデパンダン」展のことが、ひとりの出品作家の目で描かれていた。
名著といわれるこの本が、ふたたび読めるようになったのが、著者が亡くなった直後というのは、皮肉な話である。
もともとは『TBS調査情報』という月刊誌のために書かれたこの赤瀬川のテキストは、赤瀬川自身はもちろん、戦後の日本の美術史を語るには不可欠の書物となっている。
赤瀬川と親しかった美術史家の山下裕二は、千葉市美術館で開催されていた「赤瀬川原平の芸術原論」(今後、大分市美術館、広島市現代美術館を巡回)のカタログに寄せたテキストで、これらの著作に関して、以下のようなエピソードを語っている。
<そして、私が「なんで『反芸術アンパン』や『東京ミキサー計画』を書こうと思ったんですか」、と尋ねたとき、「だって、誰も書いてくれなかったから、悔しくてねえ、自分で書いたんだよ」と答えられたのは印象的だった>(「赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで」カタログより)
山下の問いかけに応えた赤瀬川の答えは、いかにも赤瀬川らしいともいえるものだが、はたしてそうだったのか。
私にはその言葉は半ば本心であり、半ばは