2015年01月06日
もうずいぶん昔の話となる。
アメリカのダウ工業株平均が、2003年4月初頭以来8000ドルをはじめて割った日(2008年10月10日)に、わたしはマカオで博奕(ばくち)を打っていた。
東京証券取引所の日経平均株価の終値は8200円台。週明けには7000円台もありうる、と囁かれた。
世界市場ではこの1カ月間で1400兆円相当が溶けた、と試算された。
こういう時にわたしは、カジノに行く。
それはわたしの経験から学んだものだ。
27年前の1987年のブラック・マンデーに、わたしはたまたまアメリカ東海岸のアトランティック・シティでバカラの札を引いていた。
日付けが変わるころになると、それまで静かだったVIPフロアが、突如騒々しくなった。
(多分、昼間の市場で大負けしたのだろう)眼を吊り上げた証券取引関係者たちが大挙して、ヘリコプターを飛ばし、ニューヨークから駆けつけてきたからである。
博奕を生業として選んで以来、この時ほど楽な勝負をしたことがわたしにはなかった。
テーブルに小賭金(こだま)が載っている際はどうあれ、同席者が大賭金(おおだま)で勝負に出てくれば、遠慮なくわたしはその裏目に張った。
刺さなければ、刺される。殺さなければ、殺される。
それが、「合意の略奪闘争」としての賭博である。
そしてここが重要なのだが、刺すとか殺すとかいう行為は、自分が刺される、殺されることを受け入れて、初めて成立するのだと思う。
この裏目戦法は、面白いように的中した。
同席者たちの憎悪と敵意を一身に集め、その憎悪と敵意を自分の中で正のエネルギーに転換させ、わたしはバカラ卓でカードを絞り、ナチュラル・エイト、ナチュラル・ナインを連発した。
「中(チョン=勝利を意味するカジノ用語)、中ッ、中ッ!」
破竹の進撃、溶岩流の勢い、昇龍の乱舞。
普段はもがき苦しみ抜いているのに、ああ、鬼畜の賭博・バカラって、こんなに簡単なゲームだったのか、と眼を開かれたように感じたものだ(のちにそれが幻覚であったと、すぐに思い知らされた)。
夜も明け、25万USドル超をバカラ卓で失った男が席を立ちながら茫然自失の状態でつぶやいた言葉が、今でも忘れられない。
「よしっ、今日はホース・レーシング」
その日の男の競馬成績は知るよしもない。
しかし、きっと大敗したのだろう、とわたしは妄想している。
博奕って、そういうものである。
幸運は単発で訪れることがあっても、不運というのは、まとめてやってくる。
不運のあとには不運が続く。
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