マリナ・アドシェイド著 酒井泰介訳
2015年01月15日
新刊が出るたびに尊敬の念を深めてしまう著者がいます。大学の先生なのですが、書き下ろしの本を定期的に上梓し、しかもネタの使い回しはやらない。代わりに、必ず著者自身の個人的告白を自然に本文に織り込んでくるのです。
これが自虐的で面白いんですよ。ついには新刊が出るたびに「今回は奥さんに内緒で特殊な恋愛ゲームにハマった過去をバラしているぞ」とか、「評価を厳しくしたらゼミから学生が大量脱落しちゃったのか」とか、その告白パートを楽しみにしている自分がいる次第です。
おそらく、続けて読んでくれる読者へのサービスでもあるし、少しでも本の内容を頭に入れやすくするための配慮でもあるのでしょう。
本書『セックスと恋愛の経済学』の著者も、そのタイプの書き手です。けっこうな量の研究成果を詰めこんだ、ことによると少し難しい本になりそうなところ、著者の自虐ネタが頻繁に入ってきて、退屈せずに読むことができます。
『セックスと恋愛の経済学――超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業』(マリナ・アドシェイド著 酒井泰介訳 東洋経済新報社)
ならば「著者は女性か、だったらこの人の下半身事情が語られたら……」と少しゲスなことを考えてしまうのも人情ではないですか。
すると期待通り、どの章にも著者の個人的な恋愛と結婚にかかわる、ちょっと自虐的なエピソードが紹介されています。ある年代からフェイスブックに表示される出会い系広告のコピーがガラリと変わったり、友人から高齢男性しか紹介されなくなったり……。
「私もずいぶん長いあいだ独り身なので、ちょっと決まり悪くなり始めました。」というしおらしい告白に間髪入れず「嘘です。」と続けている章もあります。
このようにサービス精神満点の著者が、自分はなぜ出会い系サイトで相手を見つけられないのか、真摯に考察をするわけです。これはどんどん読み進めずにはいられません。
かくして読者は、おそらく著者の狙い通り、恋愛、セックス、そして結婚について次々と思い込みを覆される読書経験をすることになります。
またそのプロセスもお得感たっぷり。丁寧にデータを示して説得してくれる本文に続いて、世界各国の愉快なセックス事情を盛り込んだコラムも大量に投入されています(スワッピング市場における独身女性はその実在を疑われ「ユニコーン」と呼ばれている、とか)。おかげでさまざまな角度から理解を深めることができるという寸法です。
そして読み進めると伝わってくるのは、アメリカではやっぱり格差が凄まじい勢いで拡大し続けている、という取り繕いようのない現実です。
金持ちは相手をゆっくり吟味して金持ち同士で結婚できる。貧乏人は格差の壁の前に若いうちから危険なセックスに溺れ、貧乏人同士で子供を作ってしまう。かくして格差は再生産される――このような身もフタもない事実が語られます。そして、おそらく日本でも事情は同じであることも暗示されています。
そんな暗い現実を語りながらも、著者はその現実に抵抗する武器となる経済知識を、本書を通じていっぱい授けてくれます。
たとえば「拡張的収益」という概念についての講義。若者がシミュレーション対象になります。
Aはリスク回避的で、常にコンドームを使う。Bはリスク中立的で、相手次第でコンドームを使うかどうか決める。Cはリスク志向で、いつもコンドームを使わない。
この場合、AとBがセックスすればコンドームを使用することになるので、2人とも性病から保護されます。ところが、いくらコンドームを使用しても妊娠してしまう可能性はあります。そして格差拡大により、妊娠は学歴を失っての底辺層への転落だと予測できるAは、セックス自体を回避するようになります(つまり「草食化」です)。
するとBはCとセックスする確率が増すわけで、そうなるとコンドームをつけないセックスが蔓延し、Bの性病感染のリスクは急上昇することになります。
つまり、セックスする若者が減ったのに性病が増加する。Aがセックス市場から除去された代わりに、全体の性病感染率が激増する、このような交換を「拡張的収益の変化」とエコノミストは呼ぶのだそうです。
このように、本書は性愛について楽しく読みながら経済についても知識を深めることができる好著ですが、ひとつだけもったいないのが索引の不在。経済用語の索引だけでもあれば、知ったかぶりしたいときすぐ参照できるのに! 気の利いた見出しの立て方、メリハリのきいた本文デザイン、こなれた訳文など高い水準の編集がなされているのに、ついあら探しをしてしまいました。
こういう「いらんこと言い」が私を恋愛市場から遠ざけているんだろうなあ……まあエエんや、恋愛より読書や! と著者に遠く及ばない自虐を披露したところで、本稿は閉じさせていただきます。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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