「学園」の出現
2015年02月03日
小学校の級友たちと最初に歌った歌謡曲は、舟木一夫のヒット曲だったはずだ。同じ団地内の友人の家には、オープンリールのテープレコーダーがあって、男子数人で上がり込み、耳で覚えた「高校三年生」や「学園広場」(いずれも1963)を吹き込んでは、再生音を聴いて笑い転げた記憶がある。
「高校三年生」は、年末には100万枚のセールスを達成し、この年のレコード大賞新人賞を獲得する。
「学園ソング」というジャンルがあるとするなら、それはまちがいなく舟木によって確立されたものである。
「青い山脈」(1947)のように、若さを謳歌する歌はあったけれど、学園生活のディテールに及んだ例はそれまでなかった。
遠藤実の曲に載せた丘灯到夫(としお)の詞は、そこに新境地を見出した。高校生たちが実際に遭遇し、経験しそうな場面や情感を詞の中に盛り込むことによって、新しい青春の姿を描き出してみせたのである。
たとえばこの歌の二番は、学友たちとの陰影を含んだ関係(「泣いた日もある怨んだことも」)を振り返りながら、フォークダンスで手をとった女生徒の髪の匂いに言及している。丘のこの絶妙な詞は、戦後生まれの若者たちに、青年期を迎えた男女が遭遇する格好の場として「学園」の魅力を訴えた。
もっとも、舟木の歌の大ヒットには、高校進学率の急激な伸長という背景があった。
彼がデビューした1963年に、高校進学率は65パーセントを上回り、2年後には70パーセントを超えている。つまり、高校進学が大半の家庭に手の届くものになり、実際に多くの少年少女たちが、10代後半の学園生活を体験するようになったからこそ、舟木の歌に滲む感傷的な情感が共有されるようになったのである。
「学園」の魅力は、しかし、男女交際の場につきるものではない。そこにはもっと功利的な理由があったことは、何度か記した通りである。
すなわち、高度成長期以後、日本人は教育による階層上昇効果を改めて認識し、「より豊かな暮らし」の獲得には、高校や大学への進学こそ最短の道であると信じたのである。親たちは、果たせなかった自身の夢を子どもに託し、子どもたちは、親の期待に応じて狭き門を潜り抜けようと努めた。受験競争が過剰な熱をはらんで繰り広げられる一方、「高校全入」は中等教育の理想像とされた。
私は、「学園」とは、そうした熱気の中で生まれ直した言葉であると考えている。「生まれ直した」というのは、戦後の「学園」概念が、この言葉がもともと含んでいた選良のための教育施設というイメージを引きずりながら、その民主教育的解釈を介して、大衆化していった経緯があったと思われるからだ。
「学園」が、親しい言葉になったのは、成城小学校(後の成城学園)、成蹊学園、自由学園、文化学院、明星学園、玉川学園など、1910年代から20年代後半にかけて設立された、大正自由主義教育に由来する学校(「新学校」と呼ばれた)が広く知られるようになってからだろう。
それは、大衆の教育施設とは明らかに異なる、選ばれた者たちの集う場所であると同時に、明治期以来の国家主義教育と一線を画すリベラリズムのイメージを発していた。
「新学校」に子弟を入学させられるのは、一部の富裕層に限られていたものの、大正自由主義教育のムーブメントは、当時登場しつつあった都市の新中間層に支えられた、もう少し裾野の広いものだった。
彼ら役人や企業の中・下級管理者、専門職従事者、事務・販売員は、恒産を持たず、その代わりに教育への投資に熱心だった。子どもの数を減らし、高学歴の獲得によって階層上昇を図る教育戦略は、この時期に生まれていたのである。彼らこそ、「学園」の価値を認識した最初の世代である。
そうしたエリート教育のイメージは、「学園」の原義に隠されていたともいえる。「園」について、漢字学者の白川静は、廟に植えた樹木を原義とし、「囗」は一定の区画された土地を指すと述べている。もとは、園陵・園廟など陵廟に冠する語が多いというから、ウチとソトを限り、内部の安寧を保つという含みがあると思われる。
つまり「学園」とは、隔離された空間であり、選ばれた青少年が俗世と一定期間、関係を断って知や技の習得に打ち込む場である。それゆえに、当の隔離空間は、現実がもたらすさまざまな制約から身を引き離す「自由」を与えてくれる場合もある。
この「自由」の観念に、戦後の民主教育の理念が加わり、戦後の「学園」の思想のようなものが生み出されたのである。
1948年に発足した新制高校は、「総合制」「小学区制」「男女共学制」の「高校三原則」に則って発足した。
「総合制」とは、将来の進路や男女の区別なく共通必修の課程を学び、その上に個人の適性・進路に応じた選択教科を自由に選ぶという仕組みである。これを地域社会の中で、男女平等のものとして運営するために「小学区制」「男女共学制」が求められる――。
ここに、戦後の「学園」の起点がある。戦前の私学的「学園」を大衆化しつつ、根幹に「学びの自由」を持ちこみ、しかも地域を共にする男女が集う「開かれた学校」として、後期中等教育は再定義されたのである。
しかし、「高校三原則」は短命に終わる。アメリカの第一次教育使節団報告書(1946)で勧告され、文部省によって公式に認められた方針であったにもかかわらず、新制高校発足時(1948)に始まった、アメリカの対日政策の変更(「逆コース」)とともに、しごくかんたんにうち捨てられた(この後の教育政策の経緯については、第4章を参照されたい)。
石坂洋次郎が、1947年の6月から10月にかけて『朝日新聞』に連載した小説『青い山脈』はつまり、この短い“転換期”の「学園」を写している。作品に登場するのは、旧制の高等学校と高等女学校であるのに、そこに萌している民主と自由の気分は明らかに、「高校三原則」に基づく新制高校のそれである。
生徒も教師も街の人々も、戦前の守旧的な思考と戦後の革新的な主張の間で揺れ動いているが、その動揺自体が活気を生みだし、やや生硬な「民主」の観念も、若い俳優たちの軽快な身体を介して現実感を持っていた。
たとえば物語の前半には、クラスメートの偽手紙で窮地に陥った寺沢新子(杉葉子)を、教師の島崎雪子(原節子)が校庭の奥にある小さな丘に導くシーンがある。新子をかばった雪子は、自分の発言が保守的な生徒たちにはねかえされたと嘆く。丘に腰を下ろし、上着のフックを外し、靴を脱ぎ棄て、八つ当たりするように、新子に向かってこう言う。
「それにしても、この子いったい不良なの? 善良なの? やい、正体をぬかせ!」
雪子を演じる原のセリフは、この作品の頂点にあると、私は感じる。
反封建、民主主義という観念をめぐって、教師は教え子に本心を尋ねる。その“尋問”はしかし、原と杉の伸びやかな身体に似て、軽快で自由で華やかですらある。二人は同盟を結び、雪子は「戦いに敗れたら」いっしょに東京へ出て働こうと新子に語る。立ち上がって戯れにワルツを踊る二人を、石坂洋次郎はこう描いた。
二つのスカートが風をはらんでハタハタと鳴った。
いまはもう、教師でもなく、生徒でもなかった。若い二人の娘たちにすぎなかった。 (『青い山脈』、1947)
教師と生徒がそれぞれの立場を超え、ごく自然に同じ思想を語りあい、手を取り合ってワルツを踊る「場」こそ、「学園」だった。「高校三原則」は、50年代の教育政策によってなし崩しにされていったが、「学園」の理念型は、こうした自由と平等の感覚とともに、小説や映画の中に保存され、人々の記憶に残ったのである。
『青い山脈』は、その後、4回映画化された。1957年版では、新子役と雪子役を雪村いづみと司葉子、1963年版では、吉永小百合と芦川いづみ、75年版では、片平なぎさと中野良子、88年版では、工藤夕貴と柏原芳恵が演じた。映画人と観客は、なぜかそれぞれの時代に、「戦後の学園」を想起するようにリメイクを重ねていったのである。
本章では、「学園もの」というジャンルに注目し、現実の教育状況と照らし合わせながら、その変貌を辿っていく。描かれ、演じられた「学園」の中には、若者たちの実像だけではなく、意外な虚像も見出せるような気がしてならないからだ。 (つづく)
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