「自由」と「民主」の幻想
2015年02月10日
『おくさまは18歳』の放映は、「学園」が大きく揺れた時代に重なっている。
その背景には、第4章で述べた通り、世界規模の反体制運動があった。異議申し立てを行った若者たちは、「学園」を運動の拠点としながら、「学園」自体の偽装性を暴露し始めた。
前述のように、戦後の「学園」は「自由」と「民主」の二つの観念の上に成立した。
一方の「自由」は、そこに学ぶ者が、知識層の予備軍として、予断や通念を離れて思考・行動する自由であり、外部社会を批判する自由も含んでいた。学生(特に大学生)は、観念の自由によって社会的存在意義を持つと見なされていたし、戦後の学生運動が社会的に許容されていたのは、そうした理由によるところが大きい。
もう一方の「民主」は、合意形成の手続きだけではなく、多分に古い左翼的含意を持っていた。
しかも、それは学生の「自由」に大義名分を与えていた。つまり、「民主」の立場を選ぶことによって、はじめて学生は「自由」を主張できるとされた。それが戦後「民主」思想であり、「民主」的な知識人の常識だった。
「自由と民主の学園」という観念は(徐々に往時の輝きを徐々に失いつつ)、60年代後半まで生きのびたが、その表出は少々屈折したものになった。たとえば、その方面の思想をことごとく排除していた日本大学では、これらの観念が強い説得力を発揮した。
次の文章は、日大闘争の渦中で書かれたものである。
……日大闘争は、その規模と形態において、日本の教育制度に対する巨大な問題提起である。九月四日古田理事会が、国家権力機動隊に学園を売りわたし、学生が涙して築いたバリケードを破壊させた行為は、日大生がバリケード内で初めて知った“自由な学舎”“実のある講座”の暴力的否定であった。だからこそすべてを暴圧する古田理事会と国家権力に対し、一〇万学生は総反撃を展開するのである。(日本大学文理学部闘争委員会書記局編『増補 反逆のバリケード』、1969、斜体は筆者)
だから彼は、理事会が「民主」的な手続きを無視し、「自由」を踏みにじって「学園」を権力に売りわたしたことが許せない。古田重二良(じゅうじろう)会頭を筆頭とする当局の、ずさんな大学経営に対する異議申し立てだけでなく、学生たちは、「学園」そのものの価値を守るために立ち上がったのだと述べている。
日大の場合、学生たちはバリケードの中で自ら開いた自主講座によって、はじめて「学園」を実感したといってもいい。
定員を大幅に超える学生をすし詰めにして行われるマスプロ教育を破壊し、知への好奇心を改めて掻き立てようとした彼らにとって、バリケードは、自身の「学園」を守る、手づくりの「囗」(区画)だったのである。
一方、同時期に巻き起こった東大闘争では、「学園」の価値に対する懐疑的な思考が急速に深化した。それは、国家と産業のエリートを産出しながら、「自由」と「民主」を標榜する大学知識人の知的退廃への批判であり、返す刀で、反体制を声高に唱えながら、体制の加担者予備軍としての存在に無自覚な自身への厳しい眼差しとなった。
現場に居合わせた小阪修平(評論家)によれば、東大闘争の「深化」は、1968年の晩秋に始まった。最保守派の法学部がストに突入し、全学ストが打ち抜かれる中で、多くの学生たちが討論に参加し、「『では君はどうするんだ!』という問いかけが深まっていったからだ」(『思想としての全共闘世代』、2006)。
しかし今ふりかえると、この「自己否定」の論理は、学歴社会の頂点に位置する者たちの、あまりにも素朴な「自分探し」のように見える。しかもそれは、学生という社会階層の利害(「自由」と「民主」)をめぐる思想から、一人ひとりの価値観を尋ねる思想へ転じた結果、焦点を失い、共有しにくくなった。
指導部が明確でないこともあって、東大をはじめとする多くの全共闘が「妥協できない組織」(前掲書)になってしまったのは、その運動が共通の獲得目標を捨ててしまったからでもある。
しかし、「自己否定」が、「学園」を痛打したのはまちがいない。それは、東大のように、「自由と民主の学園」がかつてのオーラを喪失するような事態だけではなかった。
もっと深刻だったのは、
有料会員の方はログインページに進み、デジタル版のIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞社の言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください