宇野常寛 責任編集
2015年02月19日
2020年に、東京で1964年以来の五輪が行われる。半世紀前のオリンピックは、戦後日本の復興の象徴として開催され、その後の高度経済成長を予言する、ある意味で若くてたくましい盛り上がりがあった。
翻って今回はどうだろう。オリンピック後に実現すべき、21世紀の日本の未来像が見えてくるような、具体的なビジョンやプランがあるのだろうか。
そうではなく、「絆」とか「頑張ろうニッポン」といった、失われた栄光を強要するような虚しい掛け声が響くだけで、前に出て未来に向かう展望と生命力がないことを、多くの国民は、すでにしらじらしくわかってしまっているのではないか。
本書は、その計画と実施形態が、近未来の日本に切実な影響を及ぼす今回のオリンピックを俎上に上げ、70年代生まれの若い論客を中心としたプロジェクトチームのメンバーが、設定された四つの切り口の中で、多彩なゲストを迎え、苦い現状認識と論点も当然含めながら、それぞれの意見と提言を縦横に繰り広げる、あり得べき「もう一つの」(オルタナティブな)オリンピック像を語るもの。
『PLANETS vol.9――特集:東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト』(宇野常寛 責任編集 PLANETS)
現実に迎合し最大公約数を探ることも、「あえて実現不可能なものを掲げることが真に批判的な理想なのだ」という方便に開き直ることも、何も生みはしない――と。
これには、初っ端から耳が痛かった。
なぜなら、60年代末の全共闘の時代に一度は見限ったはずの戦後民主主義を、その後はただ無批判に見過ごしてきた人間にとって、彼の言葉は、いまになって年下の世代から浴びせられる、極めて正当な糾弾の声と響くからだ。
つまり、今回のオリンピックにビジョンがないのは、90年代以来の「失われた20年」でさえ基本的に無作為でやり過ごしてきたわれわれ前期戦後世代(荒っぽく言えば「全共闘世代」である)が潜在的に抱えている、アパシーとニヒリズムとの当然の帰結の一つなのではないか、と。
宇野は、〝「オリンピック破壊計画」の想像力 ポリティカル・フィクションの可能性〟と題した巻末の「Round table talk」で、前言にダメ押しするように、こうも言う。
僕自身、国内のサブカルチャーを評論している人間ですが、戦後の日本において、戦争の本質やリアル・ポリティクス(理念よりも現実の力関係や利益を重視した政治)の問題はサブカルチャーを通じて表現されてきたと考えています。このような問題が、平和憲法と戦後民主主義の建前によって大っぴらに扱えないという意識下、あるいは無意識の抑圧があって、その結果たとえば、第二次世界大戦によるトラウマの回復的なやり直しは『宇宙戦艦ヤマト』によって行われ、近代戦のリアリズムにおける総力戦の途方もない破壊や個人と実存の関係というテーマは『機動戦士ガンダム』が表現していたと言える。つまりサブカルチャーを通してでしか、こういうものを描くことができなかったのが戦後社会です。
リアル・ポリティクスにも直面せず、サブカルチャーにもあまり馴染まなかった私は、自分の楽しくもあった青春を思い返し、残念ながら8割方は、彼のコメントに同意せざるを得ない。
しかし、FUKUSHIMAの現状やグローバリズムやISなどが跋扈する今の世界にあっては、残った2割で、彼らの批判に後押しされるようにしてではあるが、こう思いもするのだ。
「待て。たとえ遅すぎたとしても、君の言う戦争の本質やリアル・ポリティクスについて、もう一度前に向かって考えてみる」と。たとえ、「あらゆる意味でもはや戦後ではない」としても、‘Never too late'、「六十の手習い」ということがあるのだから。
こう思うのは、一つには、巻頭エッセイにはこうもあったからだ。
――政治(公的なもの)と文学(私的なもの)が一方で身も蓋もなく乖離し、そして一方では情報化社会の波に流されていびつなかたちで結びつく現代において、両者の関係をあたらしいかたちで回復するために、五輪破壊計画というポリティカル・フィクションをかんがえてみたいのだ。
因みに、冒頭に書いたように、本書はAからDまでの次の四つの切り口で構成されている。
A(Alternative:対案)
B(Blueprint:都市再開発の青写真)
C(Cultural Festival:サブカルチャー文化祭)
D(Destroy:破壊計画)
できれば多くの人に、本書に一つの結論を求める前に、彼ら一人ひとりの一つひとつのユニークな考察と、時代を生きるそれぞれの意志のかたちを、バラバラな形のままで読み取ってもらいたいと思う。
とくに300ページ近い本書の僅か10分の1のスペースしか使われていない「D」の切り口の、「五輪破壊計画というポリティカル・フィクション」を支えるサブカルチャー的な想像力は、いろいろな意味で荒れた現代を生きる、すべての人に必要だと思う。
その意味で、「政治(公的なもの)と文学(私的なもの)の関係をあたらしいかたちで回復するためにかんがえる」という本書の志は、もはやサブカルチャーの域をゆうに超えていると思うのだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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