メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

[25]第6章「<遠郊>の憂鬱(1)」

閉ざされた殺人者

菊地史彦

 佐々木哲也は、1968年春、市原市立八幡中学を卒業し、千葉県随一の進学校である県立千葉高校へ入学した。中学時代はトップクラスの成績だったが、高校では、勉学への熱意を多少失ったらしく、8ミリ映画の制作に打ち込んだり、反戦デモに出かけたりしていたという。

 彼は、早稲田大学理工学部へ進学する希望を持っていた。成算もあったのだろうが、父親が強行に反対した。早大が学生運動のメッカだからという理由だった。そんなところへ送りこむぐらいなら、さっさと家業を手伝わせようと考えたのである。

 家業とは、自動車タイヤ販売店「八幡タイヤ」である。店の所在は市原市八幡北。忙しい時は、母もモンペをはいて、トラックの大きなタイヤと格闘していた。

 1971年に高校を卒業した佐々木は、進学を諦め、店に入ったが精を出す気配がない。そこで父は、クルマを買い与え、さらに京葉道路の終点近くにレストランを持たせた。

 72年2月に開店した店の名は、「華紋」。2階建ての建物は、あたりのドライブインレストランの中でもひときわ目立った。

 開店してしばらくすると、佐々木は夜遊びを始めた。

 千葉市の栄町界隈に出入りし、風俗営業店の女性を連れて飲み歩くようになった。月給は5万円しか与えられていなかったが、店の売り上げを抜き取るのは、造作もないことだったのだろう。

 そして、74年5月、栄町のソープランドで働く女性(当時21歳)を知って、のめり込む。女には同棲中の愛人がいたが、夏には別れさせ、稲毛海岸に近いアパートも借りた。

 両親は、二人の関係に猛反対した。レストランのずさんな経営も目にあまるものがあったのだろう。父親は、クルマを取り上げ、従業員のいる前で、息子を叱責した。

 その翌日の10月30日、佐々木の両親は姿を消した。父・守は60歳。母・あきこは48歳だった。

 3日後、佐々木は、両親が行方不明になっていると市原署に届け出た。自宅から多量のルミナール反応が出たため、捜査本部が設置され、22歳の哲也を殺人と死体遺棄の容疑で逮捕した。

 9日には、父親の遺体が東電五井火力発電所沖で発見された。足を括った麻縄には、タオルケットが結びつけられていた。警察は、これで包んだ錘が転がりだしたのだろうと推察した。翌10日には、母親の遺体も発見された。こちらには、重さ21.5キログラムのタイヤのホイールドラムが結びつけられていた。ふたつの遺体には、無数の刺し傷があった。

 この「市原両親殺人事件」をモデルに、中上健次は、「蛇淫」という短編を書いた(『文藝』、1975年9月号)。

 主人公の名は順、相手の女はケイ。順はかつて「この町一番の不良」で、ケイは、順の一家が昔住んでいた「駅裏の、どぶがにおいたてる路地」の隣家の娘である。小説の舞台は千葉ではなく、関西方面である。「路地」はいうまでもなく、中上作品にしばしば登場する、被差別部落の「路地」である。

 順の父親は、さまざまな商売を手がけて成り上がり、今は製材業を営んでいる。27歳の順もすでに改悛し、両親から国道沿いにスナック「キャサリン」を出してもらった。ウェイトレスは、むりやり引っ張ってきたケイにやらせた。

 間もなく二人は肉体関係を持ち、順はケイを家に連れ込むが、両親はケイを嫌った。

 ケイの失聴した右耳の原因をめぐって、順と両親は言い争った。ケイは順に、昔彼の家に生えていたイチジクを盗んで叩かれたからだと話したが、順の父親は、ケイの母親の情夫が、中学3年生のケイを手ごめにし、それを知った母親が殴ったからだと言う。

 母親は、順が彼女に「ひっかかって、とりつかれてるんや」と言い、「蛇や蛇、あの女は蛇。淫乱」と罵る。順は、逆上し、灰皿で両親を殴りつけ、殺害する。

 そして、親殺しの物語は、小説から映画へ手渡される。

 今村昌平組から日活へ「出向」した長谷川和彦は、藤田敏八(としや)、西村昭五郎、神代辰巳(くましろたつみ)らの助監督を務めながら、『濡れた荒野を走れ』(1973)、『青春の蹉跌』(1974)、『宵待草』(1974)、テレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975)などのシナリオを書き、注目されていた。

 75年、日活を出た長谷川に声をかけたのは、ATG(日本アート・シアター・ギルド)の多賀祥介(元『映画の友』編集長)だった。

 長谷川は、一瞬逡巡したが、『理由なき反抗』(1955)のような映画ならできるかもしれないと考えた。企画を探し始めた長谷川に、「蛇淫」を読めと言ったのは、大島渚の盟友で脚本家の田村孟(つとむ)である。

 長谷川は、作品を読んで興味を抱き、中上に会い、「蛇淫」にモデル事件があったことを知る。

 半年かけて千葉へ通い、「会える人間には皆会った」長谷川は、「蛇淫」を原作としながら、調査でつかんだ事実を織り込んで、虚実半ばの脚本を書こうと考える。筆の進まない長谷川に助けを出したのは、最初の提案者、田村だった。

映画「青春の殺人者」 〓1976 TOHO co.,ltd 映画『青春の殺人者』=1976 TOHO co.,ltd
 映画『青春の殺人者』(1976)の前半は、斉木順(水谷豊)が両親を刺殺し、大量の血を洗い流し、死体を海へ投棄するまでを克明に描く。

 後半は、片耳の聞こえないケイ子(原田美枝子)との短い逃避行と、ここに及んだ順の半生のフラッシュバックである。

 映画では、順は、「元不良」ではなく、佐々木哲也本人の素性を取りもどしている。

 父親を殺した順に対し、遺体を捨て、「二人で暮らそう」と持ちかける母親(市原悦子)は、「大学行きなさいよ、また勉強して、大学院にも行きなさいよ」と語りかける。

 また、劇中劇のように挿入された8ミリ映画も、高校時代の佐々木の作品をモデルにつくられている。

 タイトルは、『磔刑(はりつけ)――家族帝国主義論序説』。「脚本・監督 斉木順」とクレジットに記された、この架空の作品は、高校時代の映画仲間、宮田道夫(江藤潤)、石川郁子(桃井かおり)の結婚披露宴で再映されるはずだった。

 3分ほどのモノクロ映像は、高校闘争の後で男子生徒が焼身自殺し、彼のガールフレンド(桃井)が拉致され、磔にされ、彼女を救いにきた仲間二人(水谷、江藤)が返り討ちに遭うというストーリーである。

 長谷川は、佐々木がつくった8ミリ作品(『血塗られた微笑』)を見て、そのアイデア(人形を投げ上げるシーンなど)を再現したという。

 撮影部の栗田豊道と助監督の相米慎二が撮影した映像は、ひどく殺伐としていて、グロテスクで、本編と拮抗するような迫力がある。あたかも佐々木のつくった映画が転生して、長谷川の映画に異議を申し立てているかのようである。

 この章で論じるのは、<遠郊>の若者たちである。

 <近郊>が都市のすぐ外側に位置するなら、<遠郊>はもう一回り外側にある。「地方」や「田舎」といわれておかしくない地域もある。地元の住民たちは、家族や仲間で喋り合う時は、土地の言葉を使う。彼らは、都市の経済や文化に直接さらされたり、その恩恵を被ったりしているとは考えていない。

 しかし後述するように、70年代以後、<遠郊>は都市の無秩序な拡大によって、急速に外へ向かって移動していった。この予想をはるかに超える拡張運動の中で、<遠郊>の経済と社会の基盤が掘り崩され、人々は仕事と暮らしのバランスを失っていった。

 千葉・市原の佐々木家は、その地に長く住み続けた人々ではない。哲也の父も母もここに流れつき、しがみつくようにして、成り上がった一家である。

 彼らは、自動車のタイヤやドライブインレストランといったモータリゼーション周辺の事業によって、<遠郊>の成功者の地位を勝ち取ろうとしていた。

 しかし息子は、こうした新興自営業者のバイタリティを間近に見て、むしろ反発を感じていたように見える。

 彼は、<遠郊>へ熱波を送ってくる首都の動静が気になっていた。地元を離れて進学校へ入ったことも、その傾向を促進したに違いない。

 彼は東京に出ようとする寸前で、父親の制止を受け、それを振りきることができなかった。いったんはしまいこんだ都市への欲望はくすぶり続け、腹いせのような遊興行動に転化した。

 それはどこか、「成り上がり」の子弟にふさわしいものに映る。しかもあげくに、急ごしらえの「恋」を制止され、彼はキレた。

 もう一方には、いったん東京へ出たものの、居続ける根拠を失って、戻った者もいる。

 立松和平は、宇都宮駅のすぐ近くの川向町で生まれた。

 彼の父は、戦災で破損した焼けモーターを東京から買ってきては、修理して脱穀や揚水などの農業用に売っていた。母は夏の間だけ、病院や食堂や家庭を回って氷を商った。

 立松は、栃木県立宇都宮高校を卒業し、1966年、早稲田大学政治経済学部へ進学した。

 折からの学園闘争に加わり、ジャズを聴き、放浪の旅を繰り返し、結婚して子どもをつくり、小説を書いた。

 卒業後は定職に就かず、バーテン、測量の棒持ち、「立ちんぼの土方」、病院の看護助手などを転々としたが、ついに食いつめ、1973年、宇都宮に戻った。

 宇都宮市役所に勤めた立松は、市街から10キロほど離れた横川地区に居を構えた。

 彼の住む「安普請の建売り住宅団地」は、田畑と雑木林を壊してつくったものだ。その「団地の脇には新4号バイパスが高速道路のような威容を誇って走り、道路の対岸には鉄筋コンクリートの箱をならべたような四階建てのアパート群があり、その先は工業団地になっている」(『回りつづける独楽のように』、1981)。

 集合住宅のとなりに、トマトをつくるビニールハウスがあれば、小説『遠雷』(1980)の舞台ができあがる。

 『遠雷』の主人公、和田満夫は、製菓工場の運転手を辞めて、トマトをつくっている。一家は、県の工場団地と住宅団地の開発によって大半の田畑を手離していた。

 金はうなるほどあった。父は、街の女に入れあげて家を飛び出し、母はその必要もないのに、道路工事の現場で交通整理をやっている。満夫は残された土地にビニールハウスを建て、農業を続けようとしている。

 満夫には、広次という幼なじみの友だちがいる。満夫の母と同じ工事現場で働いているが、田植えの時期になれば、清掃工場で働く父母と一緒に泥田へ出る。

 もちろん、彼の家にも金はある。その使い道がよく分からないままに、かたちばかりの農業と日銭稼ぎの雑業を漫然と続けている。

 二人の若者は、東京へ行かない。東京を話題にすることもない。

 満夫の兄は、埼玉の団地に住むサラリーマンだが、彼の口からも東京の情勢は聞こえてこない。青年たちは、まるで怖れるように都市に背を向けている。売り残したわずかな土地は、自身が吹き流されるのを留めるための、最後の拠り所のようだ。

 しかし、そんな彼らにただひとつ気にかかるのは、都会の匂いをわずかに漂わせる、団地の主婦たちである。彼女たちが発するけだるい停滞感は、青年たちには、欲望の表象のように見えて仕方ない。

 『遠雷』は、発表された翌年、根岸吉太郎(きちたろう)の手で映画化された。

 企画は、『青春の殺人者』と同じ、ATGの多賀祥介である。満夫(永島敏行)と広次(ジョニー大倉)を翻弄する、団地の主婦カエデ(横山リエ)は、子連れながら垢ぬけてしかも妖艶だ。広次は、そのカエデを連れて出奔し、あげくに絞殺して、満夫の前に現れる。

 映画の終盤である。満夫は、見合いで意気投合したあや子(石田えり)との結婚式に臨んでいる。彼女は、カエデとは対照的なたくましい農家の娘で、「子供をぺろりと産む女」と形容されている。

 披露宴には、近隣の縁者たちが集い、浴びるように酒を飲んでいる。まるで「村が戻ってきたよう」な光景である。夜半、雨が降り始め、満夫は濡れ鼠の広次を拾って、ビニールハウスにかくまう。

 広次が、カエデとの侘しい逃避行の一部始終を長々と語ると、満夫は相手にこう言う。

 「広次、逃げろ。俺の車乗ってけや。明日の朝一番で農協から百万おろすからよ。今夜はここで休んで百万持ってどっかで暮らせや。団地のやつらの犠牲になることなかんべな」

 小説の趣意は、小さな土地にしがみつき、勝算のない闘いを続ける男への共感であり、穏やかな田園をずたずたに切り裂いた「開発」への反感である。立松は、故郷に出戻りながら、どこか腰の坐らない自身のあり方の対極で、骨太い満夫を描き、併せてその閉塞感に耐えきれなかった広次を描いた。

 70年代後半、<遠郊>は、すでに「団地のやつら」の犠牲となり始めていた。この事情を我々はもう少し、子細に見ていくことにしよう。 (つづく)