ローカリズムと不良文化
2015年02月24日
『遠雷』の満夫と広次が、気晴らしに街へ繰り出す場面がある。
漂流の始まる前の青年たちには、まだ屈託がない。満夫の家で、夕食をいっしょに食べていた広次が、満夫に出かけようと誘うのだ。彼はまだ、団地の主婦・カエデを知らない。満夫は、土方みたいなかっこうじゃもてないから、一風呂浴びてからにしようと答える。
しばらくして、広次がクルマでやってくる。
庭からクラクションが聞こえた。マフラーが短く切ってあるので広次のスカイラインのエンジンは大型車なみの轟音がした。満夫は新しいジーンズをおろし、風呂あがりの濡れた髪に櫛をいれて外にでた。ひんやりした風が火照った頬に気持よかった。ヘッドライトに照らされて、ビニールハウスは燃上がったように見えた。トマトの黒い実や葉が炎に包まれる。広次は窓から肩を乗りだして叫んだ。
「ポマードべったり塗りやがって。リーゼントにきめてきたんか」 (立松和平『遠雷』、1980)
このシーンと会話から、満夫と広次の風態と、彼らが身を置いている若者文化の種類が分かる。
マフラーを切ったスカイラインも、ポマードで固めたリーゼントも、ともに70年代の古典的なヤンキーカルチャーである。いうまでもなく、広次役を努めたジョニー大倉は、矢沢永吉をリーダーとする「キャロル」のメンバーである。
彼の熱演(日本アカデミー賞優秀助演男優賞)がなければ、この映画の雰囲気はずいぶん違ったものになっただろう。広次=大倉の、激情を制御しきれない危うさと、甘えを隠しきれない孤独感を交互にのぞかせた<遠郊>の青年像には、70年代のカウンターカルチャーの匂いも残っている。
「ヤンキー」は、戦後不良文化の代表的な表象のひとつである。
その言葉通り、ルーツはアメリカの若者文化にある。リーゼント、革のジャンパー、オートバイの組合せは、50年代のマーロン・ブランド(『乱暴者(あばれもの)』、1953)やジェームス・ディーン(『理由なき反抗』、1955)らに発し、日活アクション映画を介して日本の若者に伝わった。
同じアメリカ文化でも、大学生の髪型や服装から来た「アイビー」は、中産階級の価値観を伴っていたが、「ヤンキー」は、元々は下層階級のものだ。
70年代、ヤンキーはふたつのブームと併走し、時に合流し、全国へ拡大した。
ひとつは、暴走族である。
暴走族は、70年代のバイクの低価格化を背景に生まれた。はじめは、集団走行による自己顕示が目的だったが、70年代半ばには地域連合が結成され、組織間の抗争へ発展した。併せて厳しい上下関係や地域暴力団とのつながり(いわゆる「ケツ持ち」)が、組織内に軋轢を生みだすようになる。
またその風態は、典型的なバイカースタイルから逸れて、パンチパーマと剃り込みのヤクザ風髪型、アロハシャツや甚平に女もののサンダルという奇妙な取り合わせ、長丈で刺繍の入った「特攻服」まで、独特のスタイルを生み出していく。
改造学生服(長ラン、短ラン)を好んで着る中・高校生たちは、「ツッパリ」と呼ばれた。
その言葉が示しているように、彼らは成績と素行を重視する公認の学校文化に反抗した。第5章で見たように、70年代の中等教育が成績による序列の一元化を進める中で、これに反発する「非進学組」の旗印が、ツッパリ(女子のリーダーは特に「スケ番」と呼ばれた)だったのである。
80年代に入って、管理教育がツッパリを学校から追い出し、制服がブレザー(改造しにくい制服)になって、長ランや短ランはすたれた。
他方、暴走族も厳しい取り締まりと、組織内の厳しい拘束が嫌われて、勢いを失っていく。“やんちゃな”若者たちは、学校から流れ出し、バイクから降りて街に居場所を求めるようになる。
そうした中で、ヤンキーは、
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