ジャスコのある風景
2015年02月25日
<遠郊>の文化に触れるとき、「ジャスコ」を語らずにすませることはできない。
消費社会研究家の三浦展(あつし)は、地方都市及びその郊外で犯罪が頻発していることに注目し、郊外化の病理を分析してみせた(『ファスト風土化する日本』、2004)。
その中で三浦は、「犯罪現場の近くにはなぜかジャスコがある」と見出しを立て、犯罪とジャスコの因果関係を論じていくうちに、実に単純で重大な事実に遭遇する。
それは、“どこにだってジャスコはある”という事実だ。
三浦によれば、ジャスコを中心とするイオングループは、ジャスコ、サティという総合小売業だけでも327店を有している(2004年当時。両社は2011年、ともに「イオン」へ名称変更)。日本の国土のうち、たかだか12~13万キロ平方メートルしかない平野部でみれば、ほぼ380キロ平方メートル弱に1店あることになる。
「つまり、二〇キロ四方の範囲に一店はあるわけで、どこからでも一〇キロ行けば必ずジャスコかサティがあるという計算になる。だから、犯罪の起きた場所の近くにジャスコがあるというのは、その意味では当然だ。どこにだってジャスコはあるのだ。」(前掲書、斜体引用者)
そして三浦は、「もちろんジャスコが犯罪と直接関係しているわけではない」(前掲書)と前言を翻し、「全国に張り巡らされた道路網とモータリゼーション、それに伴う郊外化によって、日本の地域社会の流動化と不安定化が進み、犯罪を誘発しているのだ」と結論づけた。
しかし、それは本当だろうか? 犯罪が地方都市とその郊外で頻発しているという事実と、ジャスコがあらゆる地域にくまなく展開しているという事実には、因果関係または相関関係はないのだろうか。
『下妻物語』(2004)という不思議な作品がある。嶽本野ばらが、2002年に書いた原作が2004年に映画化されている(監督:中島哲也)。
茨城県下妻市を舞台に、ロリータファッションに身を包む竜ヶ崎桃子(深田恭子)と、レディース(女性だけの暴走族)の白百合イチゴ(土屋アンナ)の、コミカルで紆余曲折の友情物語である。
一方のイチゴ(仲間には「イチコ」で通している)は、いじめられてぼろぼろになっていたところを、レディース「ポニーテール」のリーダー(小池栄子)に会って救われた経験を持つ。
そんな二人が出会い、ぎくしゃくしながらも、相手を友として認知していく。
暴走族の季節はとっくに終わっているから、イチゴのヤンキーぶりは完全にパロディだし、ボンネットをかぶって農道をしずしずと歩いていく桃子も非現実的である。
しかし、この映画が優れているのは、<遠郊>の若者の現実が、こうした奇妙なファンタジーを介さない限り、描きようがないことを伝えているからである。
そしてこの映画は、「ジャスコ」が巧みに引用されていることでも知られている。
冒頭、代官山を目指して下妻駅に向かう桃子に向かって、地元の八百屋(荒川良々)が不思議そうに尋ねるシーンだ。
「なんで東京行くの? ジャスコがあんのに」
彼は、店の客たちといっしょに、自分たちのふだん着はすべてジャスコで買ったものだと言って、それぞれの値段を告げる。
ここで桃子が向き合っているのは、ジャスコでしか服が買えないという現実ではなく、すべての住民がジャスコで服を買っているという現実である。
これにいったん気づいてしまった者は、やりきれない閉塞感を抱えこむことになる。それを突破するには、何らかのファンタジーによって現実を壊すしかない。
奇抜なファッションも時代遅れの暴走もそのひとつだが、その程度では飽き足らない者の脳裏に、犯罪に隣り合うようなファンタジーが浮上してきても、さほど不思議ではない。
このような事態はもちろん、ジャスコが意図したものではないが、
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