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[30]第6章「<遠郊>の憂鬱(6)」

<遠郊>をどう語るか

菊地史彦

 大塚英志と宇野常寛の興味深い視点を共有した上で、もう一項加えて、この章を終えたい。

 大塚は、80年代以来のオタク文化を乗り越える契機を探していた。オタク文化の核にある、虚構による現実の置き換えが、現実に対する批評機能を失って、惰性的なファンタジーへ堕したことを見てとり、これに引導を渡す作家や作品を待っていたのである。

 そのような意味で、『ビューティフルドリーマー』で発せられた押井守の発想は、『木更津キャッツアイ』でより明確な主張へたどりついた、と大塚は感じた。

 一方、宇野の問題意識の背景にあるのは、「終わりなき日常」(または「終わりある日常」)というタームが示すように、社会学者の宮台真司が描き続けた、90年代の若者たちの心象風景である。

 宮台は、“まったりと続く終わり(終末)なき日常”が、都市の女子高校生風俗を起点に、若者文化を浸食していったようすを描き、それを破ろうとした終末論の終端に、オウム事件を位置づけてみせた(『終わりなき日常を生きろ』、1995)。

 その「終わりなき日常」が一番似合ったのは、「郊外」と呼ばれる地域だった。

 70年代に山田太一のドラマに現れた郊外は、80年代には管理教育と暴走族を招き入れ、90年代にはロードサイドビジネスに覆い尽くされながら、同心円を広げて、「終わりなき日常」を<遠郊>へ拡張していった。宇野は、その閉塞感を乗り越える可能性を見出したのである。

 率直に言って、両者はともに、自身が抱えてきた問題の解決者として宮藤官九郎を見ており、宮藤自身がどのような観点を持っていたかは、不明である。ただし、『木更津キャッツアイ』が独自のやり方で、若者物語の新しいかたちをつくりだしたのは確かであり、大塚と宇野の、宮藤に対するリスペクトは、ここに発している。

宮藤官九郎拡大宮藤官九郎
 私の方は、『木更津キャッツアイ』の物語づくりについて、重要と思われる3点を挙げることにする。

 ひとつめは、「木更津」の捉え方である。

 宮藤は、半分虚構で半分現実であるような木更津の町をつくった。あえて大塚と宇野に目配りしていえば、オタクの「夢」に閉じこめられてもないが、閉塞した「郊外」からも自由であるような空間を、つくりだしたのである。

 なぜそれが可能だったかといえば、木更津が「思っていた以上に何もない」場所だったからだ(DVD Vol.5収録のインタビューでの宮藤発言)。

 「何もない場所」を舞台に、脚本家は物語のあらゆる部分に、サブカルチャーとポップカルチャーの雑多な断片(ギャグ・セリフ・歌詞などの言葉から、商品・人物・施設などの実体まで)をまき散らした。何もない<遠郊>はその結果、魅力的なクドカン・ワールドになった。

 この「ワールド」が、オタクの偽史的虚構(現実と同じ一貫性を細部までつくり込んだ精緻な虚構)とは異なることが重要である。雑多な断片はバラバラのまま、物語の内壁を穿ち、多孔質の手触りを与えている。無数の孔からは空気が出入りし、閉塞しない。

 また、“分かる者には分かる”引用やパロディはマニアックだが、宮藤はオタク的な一貫性には頓着していない。

 結果的に、どの細部にも含みがありそうだが、発している意味は体系にならない。ドラマの世界は、まるで現実の町のように、とりとめなく、矛盾だらけでコミカルだ。

 だからこそ、主人公の死と野球と泥棒は理屈なくつながって、荒唐無稽なリアリティを醸し出している。

 『池袋ウエストゲートパーク』が、若者と大人(または権力)の対立を前提とする、古典的青春ドラマの姿をかろうじて留めているのに対し、『木更津キャッツアイ』には、そうしたプロットが存在しない。

 若者と大人の間に利害の線は引かれておらず、若者に特権的な位置が与えられることもない。すべての出来事は、偶発的な出会いやすれ違いの連なりとして、浮かび上がっては流れていく。

 重要なのは、<遠郊>が、そのようなとりとめない物語が生成する場所として指定されたことである。『遠雷』に代表される、田園や共同体に彩られたユートピアが喪失する物語ではなく、いまここにある<遠郊>がそのまま、物語られる価値のあるトポス(場所)として指定されたのである。

 ユートピアの原義は、「無い場所」であるという。<遠郊>は、そこにあるが、何もない場所であるから、ユートピアの類縁である。つまり、<遠郊>はディストピアではない――宮藤はこう語っているようだ。

 二つ目は、ジモトの語り方である。

 90年代のバブルの崩壊とそこから始まった「平成不況」によって、若者は受難の季節を迎えることになった。

 企業の雇用政策は、中高年ではなく、実は一貫して若者に対して厳しかった。90年代後半には、非正規雇用者の比率が急速に高まり、終身雇用と年功制をベースに築かれたライフコースが、破綻しかかっていることが実感されるようになった(『「幸せ」の戦後史』参照)。

 地方の若者たちには、地域経済の行き詰まりを知りながらも、都市に出ることを止め、ジモトに残る覚悟を決めた者も多い。

 こうした動きに呼応するかのように、2000年代初頭には、<遠郊>の若者を扱う映画作品が出現した。矢口史靖(しのぶ)監督の『ウォーターボーイズ』(2001)や『スウィングガールズ』(2004)が代表作だろうか。むろん、『木更津キャッツアイ』もこのムーブメントの一部であるのは否定できない。

 ただし矢口作品が、困難な課題(男子シンクロやジャズのビッグバンド)を突破するプロジェクトを通して、「終わりなき日常」を脱出するのと対照的に、『木更津キャッツアイ』には、華々しいプロジェクトが見当たらない。彼らは2年前に、至上のプロジェクトである甲子園大会の予選で負けており、主題は、敗北の「後」をどう生きるかに移っている。

 2002年の宮藤が、ジモトに残る若者たちにどんな共感を持っていたのか、分からない。ただ、敗者の烙印を押された元・野球少年たちに、何を手渡せるかと考えた節はある。

 彼が選んだのは、“普通”という一言だ。公平が、美礼先生に頼んで、野球のボールに“普通”と書き入れてもらうシーンは、甘酸っぱい中に苦さも仕込んであった。

 青年期の終盤とは、絶望的な退屈を覚悟して、“普通”に生きるための準備運動を行う時期である。このドラマの人気を支えたのは、この手堅いメッセージだったのかもしれない。

 ただし、宮藤はメッセージを口ごもる含羞の人だ。

 だから、この“普通”は迂闊に信じきれない。おそらく“普通”が、多くの「先送り」を含み、「終わりなき日常」そのものであることを熟知しながら、彼は、“普通”もまた悪くないよと呟いている。「失われた20年」のただ中で、それもまた、ぎりぎりの一言だった。

 そして、三つ目は、ヒーローの描き方である。

 このドラマの最大の仕掛けは、第6話のオジーこと小津裕次郎(古田新太)の死である。

 彼は、公平たちの先輩で剛速球のピッチャーだったが、試合中にライナーを頭に受けて、精神に異常をきたし、家族にも親戚にも見捨てられてホームレスになった。市民からは、「木更津の守り神」と慕われる彼が、第6話でトルエンの密売に巻き込まれる。

 オジーには、キャッチャーの双子の兄(慎太郎)がいた。剛腕投手である弟の名声が原因で野球を辞めた兄は、金髪に染めて不良になり、トルエンの密売にからんで殺された。

 オジーは、締めだしていたその記憶をふとしたことで蘇らせ、復讐に立ち上がる。まず、因縁のトルエンに絡む暴走族の一党を根こそぎにし、そのまま黒幕の暴力団に殴り込むが、返り討ちに遭って死ぬ。その死は、兄の死の反復であり、因果であるように語られる。

 『木更津キャッツアイ』のピークは、この第6話にある。残りの話は後日談であり、公平の死もそのひとつの要素にすぎない、とも見える。本当のヒーローは、オジーらしい。

 ところで、彼の死は、きわめて多義的である。

 「木更津の守り神」は、死を賭して、若者たちや大人たちの宙づり状態を防衛したようでもあり、もう一方では、宙づり状態がよもや守りきれないと告げて去ったようでもある。また、兄を死に追いやった自分自身に懲罰を下す行為であった、とも受け取れる。

 さらにいえば、オジーの死は、宮藤がつくりだしたユートピアの虚構性を暴いているようにも見える。第6話には、ゴミの山に捨てられた死体を見下ろすカットがあり、夢のような「木更津」の物語に硬くて重い“異物”を放り込んでいる。

 主人公が死ぬ話はいくらでもある。重要な脇役が死んだり、どうでもいい端役が殺されたりする話もたくさんある。しかし、このやや奇怪な風態の男の死には格別なものがある。その格別さの所以は、長らく「若者という物語」を覆ってきたファンタジーの、最後の一枚が外されたような感覚である。

 やや乱暴な言い方だが、オジーはヒーローであるにもかかわらず、その死には“甲斐”のようなものがない。彼なりの「義」はあるのだが、その「義」は閉じられていて、周囲に影響を及ぼさないのだ。

 実際、物語はオジーの死を契機に新たな展開を見せるわけではなく、第6話の後半は、ヒーローの死とは関係ない、ディナーショーの宝石の強奪へ流れ込む。死は、まるでゴミのように、たちどころに処分され、眼前から消え去っていく――宮藤は、2000年代の社会のリアリティをそのようなものと見ていたのではないか。

 最後にもうひとつ。ジモトとフルサトのちがいとは何か。

 ジモトという観念の核が「排他性」だとすれば、フルサトの方には、「排自性」がある。

 ジモトが排他的であるのは、分け前に限りがあるからだ。

 一方の「排自性」とは奇妙な造語だが、自分を排除するという意味合いである。

 フルサトを偲ぶ歌がいくつも現れたのは、農家の次三男が、家計の補助と口減らしのために都会へ出ていった、大正末から昭和初年にかけてのことである。この近代的なフルサト概念において、帰れない出郷者たちは、「排自」を自身の命運として引き受けざるをえなかった。

 事情は戦後でも変わらない。1950年代にも、集団就職をはじめとする大量の若者たちが都会へ向かった。“錦を飾って”フルサトへ帰った者は少数である。多くの者は、フルサトから自分を締め出し、その不帰の場所を理想化することで、心のバランスを取った。

 つまり、ジモトは外部の者を排除し、フルサトは外部へ出ていった者を排除する。地域社会はこうして、「他者」をはじきだすことで、「自己」をつくりだしてきた。地域社会を会社と置き換えても、力学の構造は同一であるにちがいない。

 そして、若者はいつの時代も、ジモトとフルサトの間を行き来しながら、ヨソモノになることを怖れ、かつ、その怖れをもたらすものに反抗した。

 1974年、佐々木哲也が両親殺しの嫌疑で逮捕された市原市は、袖ヶ浦市とともに木更津市に隣接している。70年代の市原は、地方都市から<遠郊>へ変貌する直前であり、息子にロードサイド・レストランを任せようと考えた父親には、先見の明があった。

 佐々木が殺人の罪に問われた頃、アクアラインはオイルショックの余波を喰らって、計画自体が頓挫していた。木更津の町には、ぶっさんもバンビもアニもまだ生まれていない。

 佐々木は、後のぶっさんたち同様、自営業者の息子である。家業にもレストランにも情熱を持てず、東京に出たいと思ったが、その希望は父に阻止された。屈託を晴らすためにのめりこんだ街の女性との交際も禁じられ、彼は父と母を殺した――とされた。

 しかし佐々木は、84年に下された一審の死刑判決を不服とし、控訴した。86年には控訴棄却。さらに上告したが、92年の上告審も棄却された。それでも98年には、無罪を裏付ける証拠が見つかったとして、再審を請求した。2006年に請求は却下されたが、同年、さらに第二次再審請求を出した。

 東京拘置所に収監中の佐々木は、1952年生まれだから、私と同じ“1969年の17歳”である。彼が40年余の獄中生活で、何を糧に生きてきたのかは知らない。またもしいつの日か、獄を出ることがあったら、どこへ向かうのかも知らない。

 ただ彼もまた、ジモトとフルサトの間を行き来し、悩んだ若者の一人だったのはまちがいないだろう。 (了)

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。