最相葉月 著
2015年02月26日
『絶対音感』(新潮文庫)や『星新一――一〇〇一話をつくった人』(新潮文庫)など、同じ著者による長大なノンフィクション作品群と比べ、本文が約150ページ、文字組みも緩やかな本書は、軽くてやさしい。
『れるられる――シリーズ ここで生きる』(最相葉月 著 岩波書店)
「連作短編集的エッセイ」だとも言う本書の魅力は、ページを行きつ戻りつしては言葉を一語一語味わい、ゆったりした気分で読み進めることができるところにあろう。
「境目」というのが、六つの動詞の能動態と受動態――生む・生まれる、支える・支えられる、狂う・狂わされる、絶つ・絶たれる、聞く・聞かれる、愛する・愛される――を各章のタイトルとする本書に通底するテーマである。
そこに接近する著者の眼差しは、堅苦しくはないけれど、厳しく真剣で、読む者の背筋をまっすぐにさせる。
「境目」とは、選ぶ人と選ばれる人、支援する人と支援される人、自殺する人と自殺される人……の間の「境目」であり、正常と異常、確実と不確実、強いと弱い、他者と自己……の間の「境目」でもある。
そうして著者のなかには、これらの「境目」が加速度的に曖昧になっているのが現代だ、という実感がある。
曖昧になる、と言うときの「曖昧」の中身にもまた、多様で複雑な実態がある。
たとえばAID(非配偶者間人工授精)や(新型)出生前診断といった生殖医療である。
AIDは「遺伝上の父親が誰であるか、母親さえもわからない」ため、生まれた子どもの「アイデンティティを揺るがす行い」となる。しかも当初の目的――不妊となった太平洋戦争からの帰還兵への医療――はほぼ忘れられ、「技術を利用する親とそれを提供する医療者の論理だけで進められてきた」。
当初の目的だけなら美談とも受け取れたこの生殖医療には、「子どもに対する想像力がまったく欠如している」と著者は言う。進展する技術が自己とは何かの境界を曖昧にし、当事者である子どもの存在を置き去りにしているのだ。
また、以前は診断できなかった疾病が、遺伝学の進展により胎児の段階でわかるようになり、検査方法も圧倒的に簡易になった新型出生前診断では、「選択などするつもりのなかった妊婦が(生むか生まないかの)選択を迫られる」。
こうした検査を一方的に否定はできないとしながらも、著書が釘を刺す確実と不確実との境目は、一人ひとりが心に留めなければやがては自らを苦しめる現実だろう。
すなわち、出生前診断をもってしても「まだ解明されていない病気や障害は選り分けられない。いまの不確実な状態から解放されたいと思って検査を受けても、その先にはまた新たな不確実性が待ち構えているのである」。
前著『セラピスト』(新潮社)で著者は、心理学者・河合隼雄らの仕事を紹介しながら、とくに2000年以降、内省する力が弱まり、悩む「主体」そのものが不安定である若者に触れていた(第八章)。そこでは、主体を固定したものと考える必要はないというように、悲観されるものとしての現実ではなく、現実との融通無碍な付き合いが生む可能性が述べられていた。
東北の震災は現代日本人の孤独と自殺願望の強さを「あぶりだしただけ」と語る医師を紹介し(2章)、自殺した理系研究者が置かれた環境とSTAP問題の背景を考察する(4章)本書からも、悲観したくなる現実は山ほど見つかる。
著者のなかにも恐らく、ほんの一昔前には不可能だと思われていたことが不可能でなくなった現代に対し、ある一線(境目)を越えてしまったという感覚があるのだろう。
著者の過去の作品タイトルであり、「不可能」を象徴する「青いバラ」が表紙カバーに使われているところからも、そう感じてしまう(版元配信の動画で述べられる著者の考えとはずれるかもしれないが)。
しかしそれでも、本書は不思議と温かな余韻を読後に残す。著者のようにしなやかで固定しない眼差しを持つことこそ一縷の希望につながる、という証しかもしれない。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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