自己と世界は和解しない、野合もしない。
2015年03月03日
小金井の病院に入院中の友人を見舞う途中、芦花公園駅で途中下車して、世田谷文学館の岡崎京子の展覧会を見に行った。岡崎は世田谷区の生れである。下北沢の理髪店の長女は、幼少期のうちに店のマンガをぜんぶ読んでしまったらしい。
彼女は1963年に生を受けているから、「1980年の17歳」である。この年、ピンク・レディーが解散し、山口百恵が引退し、ジョン・レノンが殺された。つまり、70年代が終わった。
「新人類」のメッセンジャー、中森明夫がやっていた『東京おとなクラブ』に作品が載るようになったのは1983年。同年大塚英志が編集長を務めていた『漫画ブリッコ』でも連載が始まる。
そしてエロ漫画業界で腕を磨いた彼女はほどなく、消費都市を生きる少女たちを主人公に、一種のピカレスクロマンを描き始めた。80年代最後の年に、彼女のもっとも重要な作品である『くちびるから散弾銃』と『pink』が刊行されている。
つまり、岡崎京子パート1は、まちがいなく1980年代に属している。
開催中の「岡崎京子展――戦場のガールズ・ライフ」にも、80年代へのノスタルジーのようなものがたちこめている。展覧会の図録に文章を寄せた人々の多くは、あの時期を同時代人として生きたアーティストやクリエイターたちである。
彼女の描いた娘たちは、無暗にモノを買いまくり、ほぼ同じ量の情熱でカネを稼ぎ、その勢いのままに恋愛をしまくった。
その無鉄砲な純粋性は――そのいくぶんかは岡崎自身が発揮していたものだろう――30年後の今も、我々を魅了する。
もっともこうした鉄砲玉少女たちが、小さな溜息とともに時折見せるあてどなさは、彼女の描く世界が、まちがいなく70年代の少女マンガへ通じていることを示していた。オカザキ・ガールたちが、一見、ミュータント(突然変異体)のように見えながら、どこか中学校のクラスメイトのように懐かしいのは、ここに理由があると思う。
すでに何人かの評者が言い当てているように、岡崎は、24年組とのその直後の世代の少女マンガの、一番正直な後継者であり、同時にもっともラディカルな革新者である。
継承された本質とは、目の前の世界への絶対的な疎隔感と緩やかな親和のプロセスだ。大島弓子の『バナナブレッドのプディング』(1977)にその典型がある。
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