鈴木涼美 著
2015年03月19日
著者・鈴木涼美は、慶応大学、東大大学院を経て、某新聞社の会社員だった。在職中、かつてAV女優として多数の作品に出演していた過去が暴露されて、雑誌やネットで面白おかしく書かれたのが2014年のこと。
『身体を売ったらサヨウナラ――夜のオネエサンの愛と幸福論』(鈴木涼美 著 幻冬舎)
表向きの顔、学歴、肩書……といった<記号>と裏の顔のギャップ。女性のこういう「二面性」は元来オトコが大いに好むところだ。
典型的だったのは「東電OL殺人事件」の騒ぎだろうか。最近は売春するシングルマザーが、貧困問題の一断面とされつつ格好の「ネタ」(消費財?)にされもする(あんまり関係ないけど、昔は人妻カトリーヌ・ドヌーヴが娼婦になる『昼顔』<ルイス・ブニュエル監督>なんて映画もあった)。
だが、文中に何度か出てくる「オンナには2種類いて~というタイプと~というタイプが……」という2分法にならうと、オトコには2種類いて、この本を最後まで読み通せるタイプと、毛嫌いして途中で投げ出すタイプがいるはずで、むしろ後者が多いかもしれない。
かつてキャバクラにつとめ、ホストクラブに通い、ブランドものの服や靴、鞄を買いあさる(ように見える)「クソみたいな世界」、そして、同業の先輩も含めた彼女たちの、身体を売ってきた(その対価はもちろんおカネだ)「クソにまみれた」生活と愛と幸せ。
本人はあえて「自虐的、自嘲的」に書いたらしいが(朝日新聞のインタビュー)、僕みたいに、キャバクラなんぞまったく行く気がせず(同僚に連れられて数回行ったおかまちゃんのバーは解放感にひたった記憶が)、歌舞伎町でよく目に付くホストクラブの看板に嫌悪感を覚える(すいませんね)カタブツからすると、確かにクソまみれの異界ではある。
ホストに入れあげてよくこんなにカネ払うな、こりゃホントにクソだ、クソだ、と突っ込みを入れつつ読み進めていくと、彼女と周囲の女性たちが織りなす矜持、奢り、自負、諦観、悔悟などなど、一筋縄でいかぬ情動の迫力とでも言うのか、いつのまにか気圧(けお)されてしまっているのに気づくのだ。
彼女に「共感する」だの「理解できる」とは決して言うまい。こんな安易な言葉を発すしでもすれば「(オトコのくせに)わかったふうなことを言わないでよ!」とたちまち反駁されるので(これは何かと学んできました……)、これがこの本の薦め方の難しいところなのだが、ここは察していただきたく!
彼女はこう書く。
「オトコの考えていることはよくわかる。自分の愛してるオンナが、自分とは関係のないところでうまくやっている、自分には理解できない幸福を摑んでいる……のが気に食わない。だから彼女が一番嫌がることがわかる……日常を壊してしまうことだ……結局、オトコにとって、オンナの複雑さなんていうのは、よくわからない……手に負えないものを壊すなんて、オトコって2014年にもなって本当に野蛮だと思う」
これは、恋人に対してリベンジポルノで応対したりするオトコを批判したくだりなのだが、これにはぐうの音も出ない。かといって、オトコが概して辟易しがちなフェミニズム的な匂いのなかに回収させないのは、あくまでも「クソみたいな世界」の描写と心象、「自虐と自嘲」が軸になっているからだろう。そこがうまい。
さて、実はこの本のキーパーソンは、身体を売ってきたオンナたちとは別に、随所に登場する彼女の母親だ。
若い時分に演劇にハマっていたという母親が娘の生活をしごく真っ当に諭(さと)す、あるいは諭すように装い、娘もそんな母に反発しながら自らを客体化する、その描き方、二人の伴走/伴奏ぶりがアクセントとして実に効いている。
その結果、著者は「愛はオカネで買うものじゃないし、幸福はオカネで買うものじゃないし、身体と尊厳はオカネなんかで売るものじゃない……多分そうなのだろう」「私たちは、……露骨に間違った道を選んだ」と締めくくるに至る。
これには、もしかして本書は「告解」の書だったのかと安直に結論づけたくなるのだが、ここは彼女のこと、次作への巧みな伏線と思いたい。第1作は、AV女優たちを参与観察した『AV女優の社会学』(青土社)、2作目が本書。アカデミズムから極私的かつ露悪的エッセイへ、大きな振幅を示した彼女が、第3作でどういう貌(かお)を見せるのか、鶴首して待つ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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