菊地史彦 著
2015年03月26日
いかなる同時代史も、私という視座を抜きにして語れない。しかし、そこに若者をすえたら、時代はどうみえてくるだろう。
エピグラフに記されたジャニス・イアンの歌にあるように「17歳のころ、ほんとうのことを知った」というのは、だれにもあてはまる経験なのにちがいない。そのときの経験が、生涯を貫く希望や無念や悔恨となって持続することもある。
かつてはだれもが若者だった。だとすれば、主体なき歴史より、若者に視座をおいた同時代史のほうが、時代の実相をあぶりだしてくれるのではないか。
ところが、ここに出てくる若者たちは、どちらかというと不機嫌で、時に反抗的にさえみえる。若者の実像は、ほんとうはこちらに近いはずだ。
最初に著者は、戦後社会にとって若者は、どういう存在として期待されていたかを概観している。
高度成長期に企業が求めたのは、全般的な理解力と協調性があって、企業にとけこみ、よく働く若者である。「成績・性格・体力」の3点セットだった、と著者はいう。
若者は家族からも期待されていた。親たちは子どもを教育することで、ひそかに自分たち一家の「階層の上昇」を願った。
さらにいえば、若者は消費の担い手でもあった。戦後の家族消費は、家電製品からはじまって、自動車へ、そして最後に住宅に向かった。
個人消費がはじまるのはそのあとで、その先鋒になったのが若者だったという。若者文化がはじまるのは1960年代なかばからだ。
しかし、それは社会の期待した若者像であり、若者の実像ではなかったし、まして若者自身の〈社会意識〉ではありえなかった。
著者は若者の時代を探るために、歌謡曲や小説、映画、テレビドラマなどから、社会が期待する若者像とは異なる実像を浮かびあがらせようとしている。
それは、たとえば「不機嫌で、ふくれっ面をした」17歳の美空ひばりであり、基地と「混血児」の宿命を追って流転する歌手、青山ミチである。
それから、社会の期待といえば、1950年代半ばから60年代にかけての「集団就職」が思い浮かぶだろう。都会の町工場や小売店、外食店などが、集団就職の若者を受け入れていた。待遇はたいてい劣悪だった。都会に出た彼らが離職を繰り返したのは、そのためだという。
離職や転職は、「割の合わない労働に展望を失った者たちの、ぎりぎりの反抗」だった。そうした若者のなかに、のちの森進一や永山則夫も含まれていた。
1960年は政治の季節だった。5月には岸政権のもとで、安保条約が強行採決される。全学連の学生たちは、きれいごとの「民主主義」を唱えるだけでは、すまないと感じるようになった。
学生たちが国会構内で警官隊と衝突して、樺美智子が亡くなるのは6月15日のことである。そして、10月、社会党の浅沼稲次郎委員長は、日比谷公会堂での演説中、17歳の山口二矢に刺されて、死ぬ。 逮捕から3週間後、山口は練馬鑑別所で首を吊って自殺する。
別の青春群像もある。工場での仕事にさっぱり興味がもてなかった中卒のある若者は、ボクシングに打ちこむようになる。1960年2月に17歳でデビュー戦を飾ったあと、新人王決定戦で3歳年上の海老原博幸を破って優勝し、1961年正月にファイティング原田というリングネームをもらった。その同じジムにいて、日本フライ級のチャンピオンとなる斎藤清作は、のちにコメディアンの由利徹に弟子入りし、「たこ八郎」の芸名を名乗る。
1969年には高校闘争がはじまろうとしていた。著者はそのころ、都立井草高校の2年生だったという。
68年は日大闘争と東大闘争の年だ。東大の安田砦が陥落するのが1969年1月。そのときに神田カルチェラタン闘争もあった。
しかし、安田砦の陥落で全共闘運動が収束したわけではない。全共闘運動はそれ以降、むしろ全国に広がり、69年には大学の8割が学生たちの手によってバリケード封鎖されていた。
高校闘争もまた、全共闘運動の盛りあがりのなかで、たたかわれていた。著者は「69年の高校闘争は、国家から仕掛けられた教育策動に対する抵抗であり、正当防衛だった」と述べている。若者たちの思いは、国家の要請する「期待される人間像」とは異なっていたのである。
1970年代半ばになると、高校進学率は95%、大学進学率は35%となったが、そのいっぽうで学校嫌いが増えはじめた。不登校、校内暴力、いじめなどの問題が深刻化していくのだ。
学校が退屈なだけでなく、自由を束縛していると感じられるようになったのは、いわゆる管理教育による締めつけが強くなっていたからだ。
81年以降、校内暴力が減少に転じたのは、学校側がてきぱきと摘発と処分をくだすようになったからにすぎない、と著者はいう。それに代わって急増するのが、いじめと不登校であり、いじめをめぐる自殺や殺人は、現在まで後を絶たない。
千葉県市原市で実際におきた親殺しをもとにした1976年の映画『青春の殺人者』、立松和平の小説を映画化した81年の『遠雷』、2004年の『下妻物語』は、それぞれ東京〈遠郊〉におかれた若者たちの闘いと反抗と挫折をえがく。
80年代には穏やかな田園地帯に開発の波が押し寄せ、90年代にはいると、ショッピングセンターやロードサイド店、コンビニが誕生する。
ところが、その後、日本経済が混迷するなかで、〈遠郊〉は次第に疲弊していった。宮藤官九郎の脚本による2002年のテレビドラマ『木更津キャッツアイ』は、「敗北」の後を生きる若者たちの「ゼロ年代のユートピア」物語だった。
そして、いま若者たちは3・11後を生きようとしている。希望となるのは東北の人びとが築いてきた「自助の仕組み」だ、と著者はいう。
それは閉鎖的ではない、包摂的なネットワークだ。「我々は、東北を“開かれたフルサト"として、志を持つ者たちを迎え入れる場所として捉え直す必要がある」というのは、東北復興に向けた著者の痛切な思いだろう。若者の時代はつづいている。
*本書は、WEBRONZAの連載「若者たちの時代」に加筆したものです。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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