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[27]第3章 文学篇(純文学)(7)

総合雑誌に掲載された無内容の「エロ・グロ」

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

 マルクス主義の立場から前衛的な舞台美術や戯曲、小説、評論などを手がけた村山知義は『変態恋愛芸術史』で、変態芸術について――

 芸術の最も重要な内容は何であるか?芸術を満たし活かすものは何であるか?芸術に火をつけるものは何であるか?一言で云えば芸術の本態は何であるか?それは感覚である。内容である。芸術は眼に見える形を取った肉感である。同時にそれは肉感の最も高貴な形である。[……]次に性欲とは何であるか。性欲とは肉感の実際行動である。性欲は肉感の最も高貴な形である。然し、性欲は人間の最も強く、最も永続的な情熱を呼びさますと共に、最も下劣な賤むべき情熱を呼びさます。
 こう考えてくると、性欲が芸術の始めに立っているばかりでなく、そのすべての段階に立ち、最後にはその最高の頂きをも輝かしていることは何の不思議もないことである。

村山 知義さん夫妻村山知義夫妻
 村山はギリシャ・ローマ時代から芸術・文化の基層には「性欲」があり、「性欲」こそ創造のエネルギーとなっていることを、ミケランジェロの裸体画、裸体の彫刻などを引き合いにだして力説する。

 既成の価値観への批判という点で、新感覚派とプロレタリア文学派とは共通項があり、プロレタリア文学系の文芸評論家である平林初之輔など、新感覚派の書く文芸雑誌『新潮』や江戸川乱歩の探偵小説等の載る『新青年』に探偵小説を書いたりした。

 たんに糊口をしのぐためばかりではなく、探偵小説や幻想怪奇、さらには猟奇小説に、当時のインテリ層が強い関心を示し、実際に創作に手を染めたりしたのである。

「都会文学」「都市文学」

 当時、「都会文学」「都市文学」といったものがあった。

 村山知義の『都会文学の新研究』(日本文章学会、1940年)によると、読み手の中心はサラリーマンやオフィスガール、若い官僚等で、総じてインテレクチュアルであり、村山によれば彼等は「社会の幸福な発展と個人の幸福とをなんとか一致させようと努力」している。

 彼等はとにかく若いので、「人生の行路の出発点に立ち、何が彼等の行手に待ちかまえているかを知りたい熱い欲望に燃え」ていて、未知の世界をのぞき見したい好奇心に満ちている。

 しかし、そういう読者は決して「たとえ現実がそうであろうと、救いのない生活の姿を見せつけられたくない」として、村山は次のように結論づける。

 救いのない現実を底の底まで抉り抜き、これでもか、これでもかと見せつけるような小説は、彼等にとって最も読みたくないものだ。このことは現代の若い人々の性格を物語っている。明るい将来が確実な納得的な科学的哲学的論証によって約束されているという状態ではない。彼等は明るい希望の可能性を、いろいろのものによって確かめたくて焦慮している。それに、少しでも影をさすようなものからは極力避ける姿勢をとる。そういう意味で彼等の性格は在る「ひ弱さ」を持っているということができる。

 昭和初頭、エリート・コースをある程度約束されていた若者の「保守的気分」と「危機意識の薄さ」も垣間見えて興味深い。

 同じ論文のなかで、村山は「一五年前にはやった新感覚派」のモダニズムの文学に触れ、彼等は都会の魔力にひかれ、「何か今までなかったもの、珍奇なもの、感覚的なもの――刺激的なもの、要するに都会の消費面だけに興味を寄せたものであり、享楽的、退廃的な傾向」であるとし、他方、これらの「都会文学」が農漁村を「平和な、健康な、犯罪以前のものと見倣す傾向をもつ」と不満げに指摘する。

 新感覚派に代表される「都会文学」が、社会の歪みや不正など、今風の言葉でいえば「社会派的」な視点や問題意識とまったく無縁の、享楽的、退廃な、都会の浮華の部分にしか関心を寄せなかった。それがこの彼等の没落の主因である。そう村山知義は言いたいのである。

売れ行きと作品の質は無縁

 エロ・グロ・ナンセンスのはやっていた時代、大宅壮一の指摘するように「道徳がなく、ただ刺戟のみを追求した」面があり、それは否定できない。

 ただ、否定できないにしても、都市に漂っていたのは一種アナーキーな、いい加減さであり、おおらかであり、自由さであった。

 昭和の終わりから平成の初めにかけて出現した「バブル」の熱狂にも似ており、新感覚派の作家やそれに触発されて続々誕生した新進作家等は、文芸雑誌ばかりでなく『改造』『中央公論』『婦人公論』など一般雑誌や婦人雑誌にまで進出し、毎号のように短編やコント、エッセー等を書きまくった。

 その典型例として、『婦人公論』の1929(昭和4)年1月号の『新恋愛風景』の中の『獅子の背に乗って』(下村千秋著)の出だしを紹介すると――。

 渓流を跨いで長い吊橋がかかり、その袂に一茶亭があった。――事件はここから始まる。女は、立とうとする僕を引き留めて、
 「温泉なんかへ行くのはおよしなさいよ。この釣り橋の先に宿屋が一つありますから、そこへお泊まりなさい、ね」というのだ。
 「そしてどうするのだ」
 「今晩、遊びに行きますわ」
 「ほんとうに来るかえ?」
 「絵かきさんを相手に嘘をついたって仕様がないわ」
 時は暮の三十日。妻には逃げられ、金はなし、正月も糞もあったものかと、やけのやん八で東京を飛び出した旅の第一日に、こんな事件にぶつかったのだ。

 『中央公論』掲載の『ネオ・バーバリズム』の項には、新感覚派の作家、岡田三郎の『ラヴ・ハンター二十四時』が載っている。出だしは――

 もしも千万長者であったなら、邸内に小劇場をつくって、ダンス・ホールをつくって、宴会場をつくって、ナイト・クラブをつくって、小ホテルをつくって、そして友人知己を招待し、芸術劇をみせ、饗宴を張り、ダンスをし、面白い面白い映画を見せ、ナイト・クラブでふざけあい、やがて、接続するホテルのダブル・ベッドに……ってな妄想を抱いている男があるとしたら、このせちがらい時世に呆れた阿呆だと、先づは軽蔑してやってもよろしいだろう。だがその男の眞に意のあるところは、多分こんなことかもしれない。どこかへぱっと飛びこむ。するとそこは仮面舞踏場で、男も女もみんな仮面をかぶり、どこの誰ともおたがい知ることなしに踊っている。そこで自分も仮面をかぶって、適当の仮面の女を物色し、踊って、そしてだんだん暗い隅の方へ行って、そこからぽいと次の廊下へ滑り出て、やがて××へ。そしてまた、単に行きずりの男女のように別れ別れになって、ホールですまして、仮面をかぶって、別々の相手と踊る。

 同じ『中央公論』の北村小松の『スピード・エロティシズム』は――

 ……然し、全く、こんな事を書いて、いいのでしょうか……
 私の友達にこう云う説を主張して退かない男がいるんです。つまりこう云うんです。
 「人間と云うものは、超自然的なスピードを感じると、思わず××するものである……」
 ――これは、どう云う学問上の根拠があるのか私は分かりかねますし、私自身、まだ飛行機以上の早い乗りものに乗った事もないので超自然的なスピードを感じた事もない、この説が本当か嘘っぱちか証言致しかねますが、然しそう云われて見ると、何となく、そんな事もありそうな気がしない事でもないのです……「その証拠に、見給え、汽車や、汽船の様なのろいスピードでさえ、人間のエロティックな興奮にさそい込むではないか!」――奴はしきりにそう云うのです。

 なんとも他愛ないもので、これではエロでもグロでもナンセンスでもありえず、時間つぶしの軽い読み物である。それが、当時の知識人の読む一流の総合雑誌に毎月のように競って掲載されたのである。

 エロとグロとナンセンスの要素で味付けをすれば、とにかく売れた。買った人がいたということである。「はやりもの」とは怖いもので、今はやっているからという理由で売れるのである。

 売れるから出す。出すから売れる。この循環は何周かすれば、終わりである。

 読者(お客)はある意味でバカではあるが、それほどバカではない。

 粗製濫造の弊をまぬがれず、マンネリで無内容の作品が急増した。新奇さのメッキがはがれてしまうと、たんなる駄文でしかなくなる。

 満州事変の勃発した1931(昭和6)年あたりから、新感覚派の人気は下降線をたどることになる。横光利一や川端康成など「本物の作家」がいたものの、多くは新奇さ珍奇さを競うことに腐心する「新人」であった。彼等は新奇さ故に、新人であるが故に、一時的にもてはやされたが、やがて飽きられ夏の蝉のようにはかなく消えていった。

 今のテレビに次々と現れては消えていく、素人芸に限りなく近いアイドルやお笑いタレントを彷彿させられる。歴史は繰り返すのである。(つづく)

*引用原典中の旧かな旧字等は現代読みにかえてあります。