横光利一の「純粋小説論」
2015年07月13日
新感覚派が衰退にむかうなか、一人気を吐いたのが前述した横光利一である。新覚派の「末梢神経的な行き詰まり」に失望した横光は、「純粋小説論」を書いた。その中で、横光は文学には純文学と通俗小説と2通りがあるが、違いは「結局のところ、意見は二つである」という。
純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性がないこと、とこれ以外には私はまだ見ていない。しかし、偶然とは何か、となると、その言葉の内容は簡単に説明されるものではなく、従ってその説明も、私はまだ一つも見たことも聞いたこともないのであるが』(「改造」昭和10年4月)
さらに横光利一はドストエフスキーの『罪と罰』をひいて、こう論を展開させる。
この小説には、通俗小説の概念の根底をなすところの、偶然(一時性)ということが、実に最初から多いのである。思わぬ人物が、その小説の中で、どうしても是非その場合に出現しなければ、役に立たぬと思うとき、あつらえ向きに、ひょっこりと現れ、しかも、不意に唐突なことばかりをやるという風の、一見世人の妥当な理知の批判に耐え得ぬような、いわゆる感傷性を備えたあらわれ方をして、われわれ読者を喜ばす。先づどこから云っても、通俗小説の二大要素である偶然と感傷性とを多分に含んでいる。そうであるにもかかわらず、これこそ純文学よりも一層高級な、純粋小説の範とも云われるべき優れた作品であると、何人にも思わせるのである。
ドストエフスキーに限らず、トルストイやスタンダール、バルザックにも偶然性がなかなか多い。
――これらの作品には、一般妥当とされる理知の批判に耐え得て来た思想性と、それに適当したリアリティがあるからだ。
こういうことである。三人称まではそれぞれの立場での主観になり、その後に純粋に白紙の立場にある四人称を設置すれば、作中人物の存在が公正かつ立体化されてくる……。
この時期、横光はドストエフスキーの『悪霊』に熱中しており、この作品に登場する「私」という人物から、ヒントを得たようだ。『悪霊』のなかに顔をだす「私」は、事件にまったく関係することなく、ただ登場人物に寄り添って、いわばナレーターの役割をしているのである。
つまり「客観」を随所にはさむことで、「主観」と「客観」を織り交ぜた立体的な小説。それこそが、日本文学が狭い「村社会」から脱して「世界文学」として海外でも認知される原動力になる、といいたいようだ。
横光利一は日本語の表現の限界ぎりぎりの「文体実験」を重ねることで、日本文学の発展を期そうと、『純粋小説論』を書いて訴えたのである。
しかし、当時の文壇で、これに同調するものは少なかった。狭い「村社会」のなかで生きていた作家や編集者には、そもそも理解の外であったのかもしれない。これは平成の今も一部あてはまりそうだ。
いずれにしても、本質的に新しいものであればあるほど、ジャンルを問わず、同時代には理解されないものである。
「新感覚派」から出てもっとも文学的成果を得、後年ノーベル文学賞を受賞した川端康成は、小林秀雄ほど皮肉な見方をせず、新感覚派の文学について、「表現主義認識論」 で、こう易しく解いてみせる。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください