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[書評]『すべての戦争は自衛意識から始まる』

森達也 著

今野哲男 編集者・ライター

ベタなタイトルにこそ、この人の味がある  

 体験したことはもちろんないのだが、最近は、戦争というものが、以前より格段と身近に感じられるようになった。明日にでも、とは言わないが、生きているうちにきても少しもおかしくはないという感じがする。

 『気分はもう戦争』(矢作俊彦・原作、大友克洋・画)という洒落た反語に、昼寝の後で無邪気に快哉を叫んでいた80年代当時の怠惰な夕暮れが懐かしい。

『すべての戦争は自衛意識から始まる――「自分の国は血を流してでも守れ」と叫ぶ人に訊きたい』(森達也 著 ダイヤモンド社) 定価:本体1600円+税『すべての戦争は自衛意識から始まる――「自分の国は血を流してでも守れ」と叫ぶ人に訊きたい』(森達也 著 ダイヤモンド社) 定価:本体1600円+税
 90年代に入って湾岸戦争やオウム事件が起こっても、差し迫った形では思い出しもしなかった60年代以前の戦争への危機感や不安などが、いまは、興奮とはまったく無縁な形で、もう一度喚起されつつあるのを感じるのだ。

 もっとも、この危機感には、残念ながら具体的なイメージが乏しい。とくに戦争の加虐的な側面においては――。

 被虐的な非戦闘員の体験なら原爆や空襲などの話でいくらか聞き知ってはいるものの、わたしたちの父親の世代は、自分の戦闘体験や兵士として行った加虐の体験については、その具体的な様相を語ってくれることがあまりなかった。

 だから、加虐体験はリアルなイメージにつながらないままで、あくまで抽象的なレベルに留めおかれているような感じがする。ベトナム戦争という、他山の石となす絶好の機会があったときにも、被虐と加虐の両面にわたって、自分のからだで想像力を全的に働かせることが、ほとんどできなかったのである。

 これは、おそらく、改憲や国軍創設に邁進している、わたしなどとほぼ同世代の、首相をはじめとする政治家たちの間でも、基本的に事情は同じである。

 一党独裁的なところまであともう一歩というところまで来ている彼らが、本気で戦争したいと思っているとは思わないけれど、優れた偏りのない想像力を持っているとは、およそ思えないのもまた事実であるから。

 森達也が、『放送禁止歌』(光文社 知恵の森文庫)、『スプーン――超能力者の日常と憂鬱』(飛鳥新社)、『「A」撮影日誌――オウム施設で過ごした13カ月』(現代書館)、『下山事件』(新潮文庫)、『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社)などの著作と、並びにオウム真理教の内部に入り込んで、「向こう側から見た日本の社会」を鏡絵のように映像化してみせた『A』や『A2』といったドキュメンタリー作品で、日本社会にある様々なレベルの禁忌や、それに伴う病理、そして国家的な隠し事などを、矢継ぎ早に世に問い出したころ、彼に関心を寄せた多くの人々が驚いたのは、おそらく、扱うテーマの話題性や、意表をついた着眼点のあたらしさではなかった。

 そういったトリッキーで、ときにアクロバティックでさえあるテーマ設定や題材にもかかわらず、それを扱う彼の手つきに、決して奇を衒わない「普通の眼差し」と、「予見を廃した」姿勢があるのを感じていたのだったと思う。

 ありきたりではない取材対象に、「予見を廃して」「普通に」接することは、取材で何かを発見するために、そしてその何かを見えにくくしている禁忌や病理を明らかにするために必須の、当たり前だが、なかなかできないことでもあろう。

 それを、難なく実現してみせたところに、異能のドキュメンタリスト・森達也の類まれな才能があった。

 同じことは、本書にも通底している。

 「予見を廃して」「普通に」、しかも「具体的に」進めるという、初期から貫かれてきた著者の特性は、やや風来坊的な左寄りの論客として認知されるようになった今でも変わりはなく、戦争という観念の、過去・現在・未来における日本的なあり方をめぐって書かれた本書でも、あまり変わるところがない。

 そんな彼の特長を表す、具体的なエピソードを二つほどあげる。

 一つは「日本軍将校が行った中国人の百人斬り競争」という話の取り上げ方についてである。

 本書には、著者が南京の「南京大虐殺祈念館」の展示で見た、1937年12月13日付東京日日新聞(現在の毎日新聞)の、「百人斬り超記録 向井106-105野田 両少尉さらに延長線」の見出しを持った、二人の軍人の写真付きの記事が紹介されている(見出しにある105、106は、向井、野田両少尉が斬った中国人の数を示している)。

 この記事について、彼は現在の視線で前のめりに断罪するのではなく、「見出しだけを読めば、ほとんどスポーツ新聞だ」とため息をつくように慎重に言った後で、当時の日本人のほとんどはこの見出しに高揚し、もっと記録を伸ばせ、もっと多くの人を殺せとオリンピックのようなエールを送り、快哉を叫んで喜んでいたはずだと推定する(何せ、この件はこの時期まで、都合3回にわたって記事になっているらしい)。であるならば、国民も同罪だと。

 そして、国民もそうであったからこそ、「一部の指導者の意思や工作だけでは戦争は始まるわけではない」と述べ、「その意味で僕は、一部の指導者にのみ戦争の責任を押しつけた東京裁判史観は間違っていると考える」と、いとも明確に言い切ってみせる。

 そうして右だけにではなく、左にも同様にあった禁忌を、遠慮なしに暴いてみせるのだ。「こんなことを言うと、いわゆる『左側の』人たちからも叩かれる。でもこれは譲らない」と。アナーキスト風のノン・イデオロギー左翼としての面目躍如といった痛快な言辞だ。

 さらに一つ。現行憲法が公布される前に、国会で共産党の野坂参三が当時の吉田茂首相に「戦争には侵略戦争と自衛の戦争の二つがあり、その双方を否定するのはおかしい」と質問すると、吉田は「自衛の意識が戦争を起こす」と答えたそうだ。

 つまり、侵略と自衛の双方の戦争を否定したのだ。これが本書のタイトルにもつながったわけだが、森も、これを「すなわち九条の精神だ」と評価し、吉田の見識をリアルで正しいと言っている。

 ここには、戦争への危機感や不安が投影された60年代から70年代にかけての若者たちが使った、己を超えるものに向かうラディカルな「自己否定」の精神と相通じるものがある。

 あの時代に岡林信康は、「信じたいために疑いつづける」(「自由への長い旅」)と歌った。この「信じたいために」を今に至っても忘れないところが、筆者の一番の魅力なのだと思う。

 しかし、自由民主党で吉田の遠い後輩にあたる安倍晋三が、吉田と同じく、果たして信じたいがために疑い続けるに足る人物なのかどうか、残念ながらそれは、まだ誰にもわからない。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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