上野千鶴子 著
2015年04月23日
「在宅ひとり死」とは、著者である上野千鶴子が考えた言葉である。
『ケアのカリスマたち――看取りを支えるプロフェッショナル』(上野千鶴子 著 亜紀書房)
誰にも看取られずに死んだ当人が「孤独」だった、あるいは「孤立」していたとは必ずしも言えないではないか、その思いが私の違和感の中心にある。家族に看取られても「孤独」や「孤立」を感じながら最期を迎える人はいるだろうし、誰にも看取られずとも「孤独」や「孤立」とは無縁のまま逝く人もいるだろうからである。
だから、「ひとりで老いて、ひとりで死んでも『孤独死』とはいわれたくない」(まえがき)と思う著者が、高齢者介護・医療の現場のパイオニアでありカリスマである11名に「『おひとりさまのわたしはどうやって死ねるか?』という問い」をぶつけに行ったという本書は、大いに私の読書欲をそそった。
それだけではない。国(厚生労働省)がいま進めている高齢者を対象とした「地域包括ケアシステム」という政策は、端的に言えば、病院で過ごす老人を一人でも減らし、在宅へと回帰させることを目的としている。
つまり、時代は明らかに「病院死」から「在宅死」への流れのなかにある。
そうした現実がある以上、在宅で、しかもひとりで死ぬとはどういうことかについての関心は、個人的な興味を超えて増していかざるを得ないのだ。
結論を先に述べよう。「在宅ひとり死はちっとも怖くない」。これが、著者が抱き、本書で提示する確信である。
1999年から在宅ケアの調査を開始し、介護の現場を見てきた社会学者の著者が、今回改めて在宅介護・看護・医療のパイオニア11名のもとを訪ね、彼らの現場に接した上での結論が上記のようなのだから、正直、頼もしい。
しかし同時に、本書を読んで実感するのは、当事者でない人は一人もいない「死」について各人が事前に考えることなしに――ただ安穏と制度に身を委ねているだけで――、「ちっとも怖くない」と思える「在宅ひとり死」はやってこないだろう、ということでもある。
本書に登場する11名のパイオニアの方たちの活動は、それぞれに素晴らしい。素晴らしいとしか言いようがない。
しかしだから余計に、彼らが抱える問題の複雑さ、現実の厳しさも垣間見える。問題が、在宅介護か施設介護か、「おひとりさま」か家族のいる人か、といった区分を超えていることも、本書を読めば理解できるはずだ。
たとえば対談相手の一人、理学療法士・高口光子さんが現場を評した言葉――「(どうしたいか)決められない本人」「無関心か疲れ切った家族」「顔のみえないご近所」そして、「エバる社会性の低い医師」「振り回されるサービス提供者」――は本当に重い。
この書評で11名の活動の逐一を紹介することは控えるが、それは、現場が孕む現実の多様さと変化のスピードの速さを、要約の名のもとで誤って伝えることになりはしないか、また、11名のカリスマ性を強調することで「厳しい現実はカリスマでないと克服できないよね」といった印象を与えることを恐れるからである。
当然著者は、そうした可能性も十二分に把握している。だからこそ、カリスマ相手に率直で大胆かつ鋭い質問を繰り出す。なかには「不謹慎!」と感じる読者がいるかもしれないが、私はこの「不謹慎」ととられ兼ねない質問のなかにこそ、本書を読む醍醐味を感じる。
だから著者は、カリスマである対談者とともに、「カリスマ」がいなくても回っていくシステムをつくるにはどうしたらいいかについて、考えるのである。
まったく安穏としていられない現実があるにも拘わらず、著者が「在宅ひとり死はちっとも怖くない」という確信を得るに至る過程は、読者一人ひとりが本書を通して納得するしかない。そう思う。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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