ドストエフスキーの原作と『悪霊』をめぐって
2015年04月27日
原作であるドストエフスキーの中編小説(1876)を読んでも、映画『やさしい女』の鑑賞の助けにはほとんどならない。しかもブレッソンはドストエフスキーの原作を批判しているという。
とはいえ、ブレッソン映画の静けさとは真逆の、熱に浮かされたような饒舌で多声的(ポリフォニック)なドストエフスキーの原作を、あくまで<小説として>読むならば、その言葉の群れのカーニバル的交響に圧倒されるにちがいない。
映画同様、語り手である夫は自殺した妻との生活を、彼女の亡骸(なきがら)を前にして回想しながら、うわごとのように不安定な、相矛盾するような言葉を吐き出していく。前言を打ち消したり言い直したりを、何度も繰り返しながら……。
そうした描法は、いわゆる<意識の流れ>と呼ばれる手法で、首尾一貫性を欠いた語り手の内的モノローグ/独白が、現在進行形であるかのように連ねられる。
たとえば冒頭まもなく、夫はこう語る――「彼女はいま、応接室のテーブルに横たわっている(……)。お棺は明日運ばれてくる。白い棺だ(……)。だが、そんな話をしたいわけじゃないんだ……。私はこうしてうろうろと歩き回り、何が起こったか、はっきりさせようと努めている。もう六時間もこうしているのに、それでも起こったことのすべてを一つにまとめることができないでいる。問題は私が相変わらずいつまでも歩き回っていることなんだ……。それはこうだった。順番に従ってお話しよう(順番だって!)。皆さん、私はおよそ作家ではないし、そのことはとっくにお分かりだろう。でも、そんなことはどうだっていいんだ(……)」(ドストエフスキー『やさしい女・百夜』井桁貞義・訳、講談社文芸文庫、2010、12-13頁)。
ドストエフスキーの人物独特の、核心を遠巻きにして延々と迂回しつづけるような、多方向に散乱するような、変に熱のこもったスリリングな内的独白だ。
あるいは――「……とうとう彼女[まもなく語り手と結婚するヒロイン]が[質店に]姿を現わした時、私は平常よりも丁寧に会話へと誘った。私はこれでもかなりの教養を備えているので、しかるべきマナーも心得ているのだ[この男のいびつな自意識・自尊心は変におかしい]。……そして私はたちまち理解した。
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