西森路代(にしもり・みちよ) フリーライター
フリーライター。1972年生まれ。愛媛と東京でのOL生活を経て、アジア系のムックの編集やラジオ「アジアン!プラス」(文化放送)のデイレクター業などに携わる。現在は、日本をはじめ香港、台湾、韓国のエンターテイメント全般について執筆中。著書に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)がある。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「違いを大切にして生きていけば、幸せな生を営める」
『私の少女』は、海辺の村を舞台に、ペ・ドゥナ演じるエリート警察官と、血のつながりのない父から虐待を受けている少女の交流を描いた物語だ。
『私の少女』 東京・ユーロスペース、新宿武蔵野館(レイトショー)ほか全国順次ロードショー
閉塞した人間関係、同性愛者への偏見、少女への暴力など、さまざまな問題が描かれているため、韓国映画を見ている人ならば、『トガニ 幼き瞳の告発』を思い出すのではないだろうか。
この『トガニ』は、実際に起きた事件を題材にし、公開後には、韓国での13歳未満の児童への性暴力犯罪の処罰に関する改正案がトガニ法として制定されたという社会的な意義のある作品であった。
しかし、この映画の監督、チョン・ジュリ氏は、こうした社会的メッセージよりも描きたいことがあるという。監督がこの映画に込めた思いと「責任」とは何かを語ってもらった。
――このインタビューの前日には、マカオで行われた「第9回アジア・フィルム・アワード」にて、この映画の主演のペ・ドゥナさんが主演女優賞を受賞しましたね。第67回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品され、海外でも評価されているようですね。
チョン・ジュリ 私も今朝その知らせを聞いて、おめでとうというメッセージを送りました。私的な感情を表現した小さな物語なので、海外で深く共感してくださるのは私も驚きました。でも、なぜ興味深く見てくれたのかと考えると、ペ・ドゥナさんが演じたエリート警察官のヨンナムと、虐待されている少女ドヒの持つ寂しさに共感するところがあったのではないかと。その寂しさを表現してくださった二人の女優もなによりの力になったと思います。
――韓国から来た映画人から、「我々は小さくて私的な物語を作るのは苦手」というのを何度か聞いたことがあるのですが、監督はそれについてどう思われますか?
チョン・ジュリ 今の韓国の映画界は二つに分かれていると思います。商業映画は大きな物語の作品が多くて、こちらがメインを占めているのは確かです。でも、一方で独立系の小さな映画というのも作られています。だから、商業映画に関わっている人からは、そういう声が出るのかもしれないですね。
――最近の韓国映画のイメージとして、社会的なメッセージが込められているものが多いという印象があります。この映画にも暴力、偏見などに対してのメッセージが先にあるのかと思いましたが、監督はむしろ、ふたりの女性の心情を描きたいということが先にあるそうですね。監督は、社会性と映画をどう考えていますか?
チョン・ジュリ この映画に出てくるふたりの女性を孤独にさせた要素としては、社会というものが関係しています。ドヒという少女は、虐待を受けていて、暴力に慣れ過ぎて、自己表現としても暴力という手段を取ることもあります。また、ヨンナムは同性愛者で、そのために偏見の目を向けられている。でも、社会的な問題を告発したいという思いよりは、寂しさの原因を作ったのは社会だ、という思いで映画を作りました。
ただ、実はこうした暴力について映画にするのは初めてではなくて、短編映画を作っていたときから持っていた問題意識だったんです。私はこの映画を作るまでに、3本の短編映画を作ったのですが、ひとつは暴力の加害者の話、もう1本は暴力による被害者の話、そして最後の1本は暴力を傍観している人の話を作りました。
そういった問題意識を今回の映画に引き継ぎました。暴力そのものを告発したいのではなくて、暴力に苦しむ人を様々な面から描くことで、それを知ってほしいと思っていました。
――そう考えると、『私の少女』の中で、少女ドヒに暴力をふるう血のつながりのない継父のヨンハの側からの物語というのも気になります。