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『東京ブギウギと鈴木大拙』にみる因縁の父子関係

禅と戦後復興とビート世代を架橋するもの

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

 描かれた時代が敗戦後の復興期であることを示すために、映画監督や舞台演出家がBGMとして使う定番のひとつが、「東京ブギウギ」である。

 その「東京ブギウギ」の作詞者が、世界に名だたる禅学の泰斗、鈴木大拙の一人息子であったとは!?  『東京ブギウギと鈴木大拙』(山田奨治著、人文書院)が描く、愛憎相半ばする、不思議な因縁にも彩られた父子関係を、とても面白く読んだ。

鈴木大拙の息子、鈴木勝(右)=1949年鈴木大拙の息子、鈴木勝(右)=1949年
 親子と言ってもそれぞれ独立した人格。父と子がまったく違う種類のものを産み出したとしても、不思議ではない。

 まして、大拙の一人息子、アランこと鈴木勝は、養子である。自身、スコットランド人女性と結婚した大拙は、やはりスコットランド人と日本人を両親に持つアランを貰い受け、実子として戸籍に登録した。

 活発、やんちゃな子どもであったアランに、大拙は手を焼いたという。

 虚言辟があり、不品行によって大拙が学校に呼び出されることたびたび、青年期になるとハーフの魅力を武器に女性関係も派手となり、酒癖の悪さは壮年期まで変わらず続いた。

 禅学の大家として、わが子を厳しくしつけようとした大拙の教育方針が裏目に出た結果かもしれない。ここまでなら、「偉い学者と不肖の息子」という、ありがちな話である。 

 しかし、アランは、ただの「不肖の息子」に終わらなかった。父に背を向けるような少年期・青年期を過ごしたアランも、後に宮澤喜一やヘンリー・キッシンジャーも参加したことのある日米学生会議のメンバーに選ばれ、頭角を現し始める。

 その翌年には、女癖の悪さにより、67歳の大拙に「あと何年も生きられないのに、執筆に集中できたはずの時間を無駄にしたのが惜しい」(『大拙日記』)と嘆かせる事件を引き起こしてしまうのだが……。

 1940年代、戦時には同盟通信社中支総局に勤め、上海へ。引き揚げ後、1947年に「東京ブギウギ」の作詞を手伝う。1950年代には、『七人の侍』や『ゴジラ』を英語圏にも発信した東宝の嘱託で仕事をしている。

 大拙の仕事の大きな核は、仏典の英語訳や英語で書かれた禅や日本文化の紹介であった。コンテンツには確かに大きな違いがあるが、翻訳という行為によって洋の東西を越えて文化を架橋しようとした点は、共通している。

 山田奨治は、『東京ブギウギ』の歌詞に注目する。

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