相田洋 著
2015年05月25日
2013年、厚生労働省の研究班が「認知症高齢者は2012年時点で推定462万人、予備軍を含めると800万人にのぼる」と発表した。いまや「高齢者の4人に1人は認知症」というわけである。
もし自分が、あるいは家族が認知症になったら、どうするか。「認知症800万人時代」にあっては、これは避けては通れない切実な問題である。
その意味で、元NHKディレクターの著者が、母親の認知症発覚から最期を看取るまでの一部始終を記録した本書は、誰しも参考にしたい、きわめて貴重なドキュメントといえるだろう。
『わが母 最後のたたかい――介護3000日の真実』(相田洋 著 NHK出版)
母親の認知症発覚が1998年、母87歳、著者63歳のとき。
すでに父親は他界しており、長男の著者が妻とふたりで、また次男・三男ともやりとりしながら在宅介護に悪戦苦闘する様子を、微に入り細をうがち、あきれるほどの執拗さで描き出している。
しかも、これらの多くは映像として残されており、著者の「撮影癖」に思わずうなる。映像から書き起こされた、たとえば次のような汚物処理の際の生き生きとした会話は、そのたまものだ(以下での「私」は著者を指す)。
私「パンツを外すから少し腰を浮かせてちょうだい」
母「できない」
私「じゃあ、しょうがない。俺が抱き上げるから、立って」
母「はい」
私「わーっ凄い、スッゴイ量だ、介護パンツの中が一杯、おーい、レジ袋持ってきて!」
母「臭いわね」
私「うるせえ、あんたが自分で出したもんだろう、文句を言うな!」
妻「うわーっ、重そう、中は下痢便?」
私「いや練り便のコッテリ便で超大量、ほれ」
妻「わーっ、本当だ、昨日のウナギが効いたかしら?」
私「ゆうべはウナギで、一昨日はウニだったから、ダブルで効いたんだ、きっと」
母「ごめんねえ」
私「謝るくらいだから、今日はマダラ正気か?」
たいていの当事者は笑ってはいられないだろう。だが、当事者でありながら半分は「テレビ屋」である著者は、右往左往する自分や、母との問答を面白がり、悲惨な出来事をも「笑える場面」として撮り客体視する。
しまいには、こうした母の弄便(ろうべん)癖を「ゴールデン・フェスティバル」、自身を「肛門係長」などと名づけてしまうのである。
ガルゲンフモール(絞首台のユーモア)が本書をつらぬく。しかし一方で、そのカラッとした書きぶりが、かえって介護の過酷さを浮き彫りにもするのだ。
本書を読むと、介護とは果てしなき繰り返しであり、当人が健康なときなら特に問題のない当たり前のことを、順序立ててひとつひとつ根気よく行なうことだと、しみじみと思い知らされる。
他人が横から「介護は大変ですね」というのは容易(たやす)いが、そこには無数の感情があり、判断があり、行為がある。
そして、繰り返しのなかにも確実に訪れる老いや病状の進退があり、それにともなう関係性の変化がある。連れ合いの不満に直面したり、きょうだいとの確執が生まれることもあれば、医療や福祉の思わぬ「壁」に阻まれることもある。当然、お金の問題もある。
そして同時に、これだけの苛烈な現実は、相田家にとどまらない、「世界一長寿国の日常茶飯事」なのである。
ところで本書には、かなりの分量を割いて、著者の家族史が記されている。
なかでも、アジア太平洋戦争が始まり、その終結後に母が満州から3人の幼子を連れて祖国に引き揚げてくるまでの日々(父はフィリピンに出征しておりいなかった)については、1章分をこれにあてている。
介護記録に、なぜこうした記述がはさまれる必要があるのか。
それは、著者にとって介護が、母の人生と、その母によって与えられた自分の人生を知ることにほかならなかったためであろう。そしてそれは、裏を返せば、それまでは母について十分に知ることがなかったということなのである。
本書のタイトルが、『わが母 最後のたたかい』と、自身ではなく母を主体にすえたところに、私は著者の介護に対するひとつの態度と、最終的にたどりついた母との関係性のありかたを見る。
満州からの引き揚げという「第一のたたかい」、無一文から家庭を築きなおす「第二のたたかい」、そして人生の終盤に待ち受けていた認知症との「最後のたたかい」。
著者の母は2011年、望んでいた自宅ではなく病院で亡くなった。満100歳5か月であった。
人間の一生がどのようなものか、本書にはそれが率直な喜怒哀楽をもって、深く丹念に綴られている。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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