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「植草甚一スクラップ・ブック」展に感じて

アメリカン・サブカルチャーが一番面白かった時代

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

 学生の頃、一度だけ植草甚一を見かけたことがある。1973年だったと思う。

 渋谷から井の頭線に慌てて飛び乗ったのは、何の用事だったのだろう。東松原の友人に会いにいくところだったのか。それとも吉祥寺で待ち合わせでもあったのか。

 吊り皮につかまると、目の前に座った年輩の男性がずいぶんおしゃれな格好をしているのに気づいた。小柄で痩身のその人は、チロルハットを被り、花柄のシャツを着ていた。

植草甚一植草甚一
 駒場東大前あたりで、彼はショルダーバッグから冊子状のものを取り出した。

 いや、よく見るとそれは切手帳だった。

 パラフィンの小袋から、だいじそうに取り出した数枚の切手を、切手帳に移しかえる手つきを見ながら、私はようやくそこにいるのが、J・Jと呼ばれた植草甚一であることに気づいた。

 世田谷文学館で開催中の「植草甚一スクラップ・ブック」展は、原稿、ノートブック、試写メモ、日記、スクラップ・ブック、スケジュール表など文筆活動のツール類に始まり、コラージュや写真、切手、文房具、愛用のネクタイやスーツに至る膨大な遺品を披露する過去最大の展覧会である。

 植草の4万冊に上る蔵書は、没後古書店を介して再び町へ還流し、その他の遺品も大半がファンの手もとに渡ったが、2007年の「植草甚一 マイ・フェイバリット・シングス」展(世田谷文学館)を機に、家族や関係者から多くの品が寄贈されたという。今回の展覧会は、同館の1200点に上る所蔵品を中心に企画・構成された。

全体をつかみ取ろうという意志

 試写メモは、暗闇の中で書きつけられたのだろうか。縦綴じの裏表を使ってストーリーや人間関係をかなり細かく書き留めている。植草は、評論家が映画の一部だけをピックアップして論じるのを批判し、映画は丸々再現すべきだと書いたが、「丸々」を実行するためにはこの稠密なメモが不可欠だった。

 無数のノートブックも圧巻だ。作家や作品、特定のテーマを冠したB5サイズのノートは、原文に自身の訳文や語釈を添え、関連記事を貼り込んで時に膨れ上がる。

 ノートブックとスクラップ・ブックは、もっとも植草らしい情報整理ツールだが、そこに漲っているのは、試写メモと同様、全体をつかみ取ろうとする強い意志にほかならない。

 植草甚一は明治人である。1908年(明治41)に、日本橋小網町で木綿問屋の一人息子として生まれた。

 青年時代には左翼活動に共感したこともあったが、映画館の主任助手を経て東宝に入社してからは、映画の世界へ深く没入した。

 戦後は、「来なかったのは軍艦だけ」と言われる大争議の渦中で東宝を退職。映画雑誌の編集や映画評論の執筆の傍ら、翻訳推理小説の選定や監修にも乗り出し、50年代後半からはモダンジャズにはまってこの方面の文章も書き始める。

 こうして映画・推理小説・ジャズという「J・Jワールド」の要素は、60年代初頭には出揃っていた。

 植草の名前が一般に知られるようになったのは、60年代の後半である。『平凡パンチデラックス』で一風変わった自由人として紹介され、当時人気のあった『話の特集』に長文エッセイの連載を開始。この連載が、『ぼくは散歩と雑学がすき』(1970)にまとめられて、彼の全体像を広く知らせるきっかけになった。

 60年代後半は“不機嫌な"若者たちの反抗の時代であり、欧米でもアジアでもさまざまな反体制運動が続発した。自由世界の盟主アメリカでも、公民権運動やベトナム反戦運動によって国内秩序がゆらぎ、西海岸を中心とするヒッピームーブメントが一世を風靡した。

 それは近代合理主義への対抗文化運動として先鋭化し、精神の自由を求めるサイケデリックカルチャーへも展開していった。もっとも強い国の内側で、もっとも奇妙なものが爆発したのだから、この時代のアメリカ文化はなかなかの見物だった。

 植草ももちろん、この機会を逃さなかった。

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