牧原憲夫 著
2015年06月04日
山代巴(やましろ・ともえ)はたぶん、いま「有名人」ではないだろう。いや他人事ではない。私自身、「たしか『荷車の歌』の作者だったよなあ」という程度の知識(?)しかなかったのだから。
「いやあ、すごい人なんだ」――本書を読了した感想を一言で記せば、こんな素朴すぎる言葉が飛び出してしまう。
1932年に日本共産党に入党。1940年5月に治安維持法違反で逮捕され、45年8月、病気により仮釈放されるまで獄中にあった。この間、流産を経験し、運動の指導者だった夫は獄死した。
戦後は当初、戦中の運動への故なき疑惑から党員登録を拒否されるなど、共産党中央とはしっくりいかないままだった。
だが、目指すべき社会主義社会への確信は揺るがなかった。日本農民組合での活動、原水爆禁止運動とのかかわり、農村女性の生活記録のグループ活動などに取り組み、自伝的長編小説『囚われの女たち』の執筆に至る。
この間、何度も挫折や失敗を繰り返した。しかし、2004年、92歳で死去するまで、ふつうの生活者と社会変革をつなぐ道を追求する志操を手放すことはなかった。
日本近代史研究者である著者と山代巴との出会いにはいくつかの偶然が重なったという(この点は「あとがき」に記されている)。
しかし、「民衆史」と呼ばれる歴史認識の道を切り開いてきた研究者の一人である著者にとって、この評伝執筆は一つの必然だったかもしれない。山代が模索の中で見つめていた民衆は、著者が歴史記述において追求してきたものと重なるからである。
著者が本書の執筆で採用した方法は、まずは「山代自身に語らせること」である。当然、『囚われの女たち』(径書房)が多く引用されている。
しかし、それ以外の膨大な著作はもとより、獄中の書簡・手記、ノート・草稿類、さらに関係者の証言、関連文献があますところなく(!)渉猟され、適宜引かれている。
山代の生涯とその思想は一筋縄でとらえることができない屈折に満ちたものである。著者の入念な引用は、そうした屈折に多角的に光を当てることに成功している。
たとえば、映画化され(山本薩夫監督、望月優子主演)、演劇にもなり(文化座、鈴木光枝主演)、大きな反響があった『荷車の歌』について。著者は「語り口のおもしろさに留意しながら」、この作品のあらすじをくわしく紹介した後、寄せられたいくつもの批評を参照している。
称賛するものだけでなく、当時、九州で文学サークル「サークル村」を主宰していた詩人谷川雁の痛烈な糾弾にも言及する。ここでは、古い共同体や家父長制に縛られている女性たちを外側から批判する谷川と「最初の一歩」を踏み出すために模索する彼女たちに寄り添う山代との「違い」が浮き彫りになっている。
戦後の日本社会は山代が抱いた社会主義への夢をはるかかなたに追いやって、高度成長を突っ走った。1968年、党員としての転籍手続きをしないまま共産党から離れた山代は、この成り行きをどう見ていたのだろうか。
山代は、「一人一人が人権に目覚め、互いが平等の人間関係を持つ里……その自治の里」を語る。彼女が「ふるさと」と呼ぶものである。
そして、私たちはそれを求めてきたはずなのに、その努力は「いまや木端微塵に砕かれようとしている」という時代認識を示すのだ。
では、どうしたらいいのか。山代の言葉をさまざまに引きつつ著者が明らかにしていることを私なりに表現すると、徹底して自己を客観視することを通じて他者との連帯を構築していくということではないか。
それは自己懐疑によって自己を「被害者」としてしか捉えていなかった人間が「被害と加害の連鎖」に気づくプロセスである。
山代が他者によく学ぶ人だったことも著者は明らかにしている。まず、著者が「中井なしに戦後の山代はなかった」と書く中井正一である。後に国会図書館副館長となった中井は「委員会の論理」と呼ばれた独自の組織=運動論の持ち主だった。
中井らを講師とした夏期大学は1947年、広島県内14か所で開かれ、延べ3万人が参加した。知識人による民衆啓蒙運動が花開いた時期だった。山代はその運営をリードした。
この夏期大学の講師でもあった武谷三男も「先生」の一人だった。「武谷三段階論」で知られた物理学者である。「現象―実体―本質」の3段階を設定したその認識論は、湯川秀樹、坂田昌一ら中間子論グループをリードした方法論だった。
山代は、しかしこうした「先生」たちの理論や言葉を祖述したわけではない。実践の中で農村の女性たちに伝わる「生活語」に翻訳して、自己の文章を紡いだ。それもまた、山代巴なる人の「すごさ」の一端だろう。
『囚われの女たち』を読んでみようか。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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